テイタム・クロニクル

政府の麻薬運営への証言

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チップ・テイタムの「殺しのライセンス」?

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ホワイト・ハウス
ワシントン

D. G. チップ・テイタム
コードネーム:ペガサス

貴方は、以後、米国政府の奉仕へと、任命されます。

[黒塗り]は違法的に、米国の安全と選択された米国の***に対して重要な問題である書類を得たと判断されました。故に、それらの書類が取り戻されなければならないと言うのが国家安全保障委員会(NSC)による、判断された見解です。

この判断により、貴方は、提言された書類を取り戻し、この犯罪者が正義へともたらされるために、必要であればあらゆる方法を使用する事が許可されます。貴方は、この使命を達成するために、現存する規制と FTM を執行する事が許可されます。

もし、貴方の任務の執行において、生命の消失が起これば、貴方は、起訴から例外とされ、保護されるでしょう。

サイン: ジョージ・ブッシュ

テイタム・クロニクル
テイタムの記録

ジーン「チップ」テイタム(退役軍人真実)
http://whatreallyhappened.com/RANCHO/POLITICS/MENA/TATUM/tatum.html

私は、1970年のヴェトナム戦争の間に、軍事奉仕の志願兵として、政府への奉仕を始めました。空軍技術学校を卒業した後、私は空軍の戦闘コントローラー(CCT)のエリートの最初の一人に成りました。私はその後、タイの NKP に送り込まれました。タイにいる間の、カンボジアへの秘密裡の作戦の際に、レッド・ロック・チームと名付けられた私達の部隊は、北ヴェトナム人達に捕えられ、92日間、捕虜とされました。ソヴィエトと中国人の士官達による訊問の間、レッド・ロック・チームは、頻繁に死に結果した暴力と拷問を通して、沈黙を保ちました。私達が、捕虜として囚われていたキャンプを、米国の海兵隊のパトロールが発見していなかったなら、そのチームの全員が死んでいたでしょう。ですが、私自身と、私の部隊の軍曹にとって幸運な事に、私達は、拷問され、殺される前に、偵察のパトロールによって解放されました。米軍と私達の捕獲者達との間の戦いの間に、私は負傷しました。尋問の間の暴力と拷問から衰弱していた私は、意識を失いました。三週間後に私は、フィリピンのクラーク空軍基地で目覚めました。その2、3日の内に、サイゴンから来た人が、使命を「報告(命令)」しました。その報告の間に、レッド・ロック・チームが関わった出来事は、25年間、ニクソン大統領の命令によって、機密にされた事が説明されました。その使命の繊細な本質のために、大統領は、国家安全保障を理由に、私が「機密」にされる事を必要としました。CIA が責任を持つ事が決定されました。1971年6月6日に、私に報告するためにサイゴンから出向いた人、ウイリアム J. コルビーは私が、以後、CIA の管轄の下であると助言しました。私のコードネームはペガサスでした。

その後8年間の間、私は DCI (中央インテリジェンス/CIA の長官)の作戦的な操作の下、5つの大陸を旅しました。私が、戦争捕虜に関する情報を、南西アジア、から、アジア-ヨーロッパまで収集し、その情報を、私の上司、ウイリアム J. コルビーと、彼の前任者、ジョージ・ブッシュ(シニア)に報告した際に、私達の政府は、その情報に基づいて行動しないと言う事に、私は気付きました。私の契約の終わりにおいて、私は大いに必要とされた休息のための、フランスの抵抗軍の歌によって、私自身が強制されている事を見つけました。

「貴方が倒れた時、我が友よ
影から
もう一人の友人が立ち上がり
貴方の場所を取るでしょう。」

私は1978年に、引退し、コロラド州の山奥の静かな町で過ごすために、、私の母国への奉仕を離れました。ペガサスとしての年月を通して、私が苦しんだ傷を癒せるのは、唯一、時間だけでした。

1980年、イランの大塩砂漠における救出活動の失敗に引き続き、私は強制的に現役復帰させられ、米国陸軍直属に配置させられました。私は直ぐに、私自身と、私の家族が、ケンタッキー州のキャンベル基地、米国陸軍の特別作戦部隊、タスク・フォース160隊の新たな駐屯地に配置された事を知りました。

160隊と共に数々の秘密裡の作戦に参加した後、私はジョージア州のステュアート基地における任務を与えられました。私は、軍事演習のために、ホンジュラスへ行くために準備していた医療的な救出部隊に潜入する任務を与えられました。

1985年の2月、ジョージア州のステュアート基地の第3/498医療部隊からの、2つの飛行乗組員達が、ホンジュラスのパルメロア空軍基地に到着しました。それぞれの飛行乗組員は、パイロット、副パイロット、医療兵、そして乗組員主任で構成されていました。

到着すると、私達、乗組員は、更なる任務と説明のために、病院の司令官に報告する事を命令されました。その病院の司令官、ジチェック大佐は、「大きな赤いもの」の本拠地である、カンザス州のライリー基地からの、入れ替わりに帰還する医療乗組員達を、私達、乗組員に紹介しました。

その国の、活動のルールに詳しい、指導パイロットと供の説明と確認飛行に続き、私達は共同タスク・フォース、ブラヴォーのための、医療避難の任務を開始しました。特別作戦のパイロットとして、中央アメリカにおいて何度も飛んだ私は、飛行環境と地元の作戦の制限を熟知していました。しかしながら、私が、私の上司オリヴァー・ノースによって説明された様に、第3/498医療隊に潜入し、医療パイロットを装う事を受け入れた時、私はその地域における、以前の関わりを秘密にする事を命じられました。

1985年、2月15日、ホンジュラスのラ・キエバへの飛行の際に、私は、オリヴァー・ノースによって、地元の上司として任命された人、フェリックス・ロドリゲス少佐に接触する事を任じられました。ラ・キエバに到着すると、私はロドリゲス少佐に連絡しました。彼は、乗組員達を迎え、CIA のセーフ・ハウスにおいて、その夜の宿泊地を与えました。その家は10フィートのコンクリートの壁で囲まれ、そして唯一の入り口にはウージー(マシーンガン)を持った護衛がいました。夕食に引き続き、乗組員達は、部屋に戻され、その間、ロドリゲス少佐と私は、私達の4か月に渡る補佐の日程を計画しました。私は、1985年の6月に、ホンジュラスを離れる事が予定されていました・・・

 

1985年2月26日

パルメロラ空軍基地の私達の諜報の複合構造物、ワリー・ワールドは、ニカラグア/ホンジュラスの国境のホンジュラス側の最大の村の内の一つに、2人の民間のパイロットを空輸する事を必要とした任務を私達に与えました。パルメロア(MHCG)からの出発の事前に、基地の機能と共に提出された、防衛省の飛行計画の第19セクションに記述された、私達の搭乗者達の名前は、ビル・クーパーとバズ・ソーヤーでした。私達は(グリーンウィッチ標準時間、1630Z に出発しました。その飛行の間に、クーパー氏は、彼等がエル・サルヴァドルのイラポンゴ空軍基地に位置する、CIA の所有物である、コーポレート・エアー・サービス社で働いていると私達に伝えました。彼等は、様々なコントラのキャンプに武器弾薬を空輸ドロップする事を調整するために、コントラのリーダー達とミーティングを開くと言う事でした。私達は問題無くエル・パライソに到着しました。そのパイロット達とコントラのリーダー達のミーティングは、1時間強続きました。そのミーティングが終わると、私達は「ワクチン」と記された白いクーラー(ボックス)が渡され、そしてそのクーラーを、ラ・メサ空港の、米空軍 C-130 に配達する様に指示されました。ホンジュラスのサン・ペドロ・スラのラ・メサ空港に到着すると、そのクーラーは、搭乗員の内の2人によって降ろされました。それはゆうに200パウンドを超えていました。そのクーラーの上の印が破れました。私はワクチンのクーラーを再封印するために、一般的に「時速100マイルのテープ」と呼ばれる飛行用のテープの幾つかを取り上げました。私は搭乗員達に、昼食を注文させに行かせました。私は、ヘリコプターに給油し、クーラーを再封印するために残りました。クーパーとソーヤーは食事に行き、彼等のエル・サルヴァドルへの便を持ちに行きました。私がクーラーから破れたテープを外した時、私はその中身が、白い粉の様なものの、幾つもの袋である事を見ました。コカインの様に現れるものの袋は、100個以上ありました。私はそのクーラーを再封印し直し、飛行機(ヘリコプター)の給油を続けました。私達が到着してから約2時間後に、パナマ行きの米空軍 C-130 が、ようやく、ワクチンを受け取るために到着しました。

私達は、パルメロアの空軍基地に帰還しました。私達が帰還すると、私は地上線(電話)を通してワシントンのスイッチに繋げ、私のコカインの発見に関して、ノース氏に助言しました。彼は私に、それが戦利品であると伝えました。「サンディニスタ達は、軍を資金援助するために、コカインを生産している。」彼は更にこう明言しました「そのコカインは、証拠として、世界裁判所に行く予定だ。」私は前の年に何度か、アーカンソーに宅配する事を任命された、白いクーラーを思い出しました。

私はケンタッキー州のキャンベル基地の特別作戦のパイロットでした。1983年と1984年において、私達は定期的に、キャンベル基地の医療救出部隊からリトル・ロック空軍基地へ、そして2度の場合、リトル・ロックの西、アーカンソー州のメナへ、医療供給と記された白いクーラーを配達する任務を受けました。私自身による更なる調査は、私が抱いていた問いの幾つかをはっきりとさせました。キャンベル基地の医療救出部隊、第324医療部隊は、CIA の操作の下にあった、特別作戦の部隊、タスク・フォース160のための、サポートの部隊でした。第324医療部隊の飛行搭乗員達は、4か月の任務でホンジュラスに出入りして、ローテーションしました。

アーカンソーへの私の飛行の際、私は、彼自身をダン・ラサター博士と紹介した人に出迎えられました。ラサター博士は、いつも一人ではありませんでした。彼は通常、身分証明のバッジを見せた、私服警官を伴えていました。彼の名前は、レイモンド・ヤングでした。私は彼に紹介され、彼のあだ名が「バディー」である事を知りました。ヤング氏は後に、アーカンソー国立防衛隊の隊員として、ホンジュラスに現れました(1985年3月16日付の飛行計画書を参照)。

1983年の秋の場合、私はその様なクーラーの2つを、リトル・ロック空港に配達する事を任命されました。「医療供給」と記されたそれらのクーラーは、ダン・ラサター博士唯一に、配達されると言う事でした。私達が到着した時に、もしラサター博士がいなかったなら、私への指示は、彼を待つ事でした。

離陸の前に私は、積荷を飛行機の後部に積むために、私達の主任搭乗員を手伝いました。両方のクーラーは同じ大きさでしたが、一方のクーラーがもう一方よりも遥かに重い事を私は気付きました。私は、軽い方のクーラーを振るい、中身を想像しようとしました。ですがそれはとてもぎゅうぎゅうに詰められていて、音を立てるものは何もありませんでした。私はそれが、ドライアイスの中にギュッと詰められた、臓器か何かだろうと持った事を覚えています。ですから中身を調べるために、私はそのクーラーを開けました。中身を詳細に確認した後、私の好奇心は満足させられ、私はクーラーを閉じて、軍事用の緑の時速100マイル・テープで再封印しました。(それらは元々、灰色の真空テープで封印されていました。)私は積荷を積み直し、そして私達はリトル・ロックへと向かいました。

私達は、夜遅く、大体10:30 pm 頃に到着しました。ラサター博士は私達を待っていなかったので、私達は飛行機の飛行後の点検と、ヒューストンのホビー空港への私達の次の飛行のための、飛行計画を行いました。深夜12:15 am 頃に1台のヴァンと印されていない警察の車に続かれたリムジンが、FBO に到着しました。最初にリムジンから降りてきたのは、ラサター博士でした。私は以前の配達から、彼を認識していました。彼は、もう2人によって続かれました。ラサター博士は、明らかに私達が以前に出会った事に気付かず、彼自身を紹介し、そして私達が臓器提供者の臓器を運んだ飛行機か尋ねました。私は彼に、私達がクーラーを運んだ事を伝え、飛行機の後部を指差しました。私達の主任搭乗員、ダグが、クーラーを運ぶためにラサターのリムジンの運転手を手伝いました。重いクーラーはリムジンに積まれ、そして軽いクーラーはヴァンに積まれました。ラサター博士は、彼と一緒にいた、2人の紳士達を紹介しました。最初に、私達はアーカンソーの知事、ウイリアム(ビル) J. クリントンに紹介され、そして次に、彼の警護の主任、レイモンド「バディー」ヤングに紹介されました。この時点において、ヤング氏は私に気が付き、そしてそう述べました。私はその後、リムジンの傍に立っていた、三番目の人物に紹介されました。私達は一夜を過ごす様に招かれ、そして受け入れました。(結局の処、私が軽い方のクーラーの中に残したメモを彼等が見つけた時に、彼等は、私と話がしたいかも知れないと、私が思ったためです。)

金曜日に、キャンベル基地に戻った後、私はコルビー長官に電話をかけ、そして配達と私の発見について伝えました。最終的にクリントン知事によって持ち去られたクーラーを開けた時、それには数キロの白っぽい粉の物質と沢山の現金が含まれていました。

アーカンソー州に配達されたクーラーは、コカインが含まれていると、私が、丁度、ホンジュラスのラ・メサ空港で見つけた物と同じでした。私は乗組員達の安全のために、私達の積荷の書類を揃えるのが最善であろうと判断しました。私はオペレーションズ(作戦本部?)へ行き、飛行計画書の裏に、コカインについて記述しました。

1985年2月26日の飛行計画書
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1985年2月26日の飛行計画書(裏)
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Veterans Truth Network (5-19-15) Stew Webb, Jim Fetzer, Gene Tatum
退役軍人真実ラジオ ウェブ/フェッツアー/テイタム

前半:フェッツアー、後半:1996年に行われた、ジーン・チップ・テイタムのインタヴューの録音

テイタム・クロニクル
1985年3月15日

http://whatreallyhappened.com/RANCHO/POLITICS/MENA/TATUM/tatum.html

私はテグチガルパにある、米国大使館に呼び出されました。頭部負傷の患者のために、私は時間内に行く事が出来ませんでした。その国内での夜間の飛行は禁止されていました。それ(夜間飛行)は、生死の問題を必要としました。その他の医療救出の飛行機(ヘリコプター)の主任パイロット( PIC )、ヒバード氏が、夕方遅くに患者と共に到着しました。JTF-Bravo の病院は、脳の怪我の治療を供給出来ませんでした。彼等はその夜に、脳外科医がテグチガルパ( TNT )に送られる様に手配しました。私はヒバード氏の副操縦士に入れ替わり、その首都への夜間飛行を飛びました。私達がテグチガルパに接近した時、その街の光は消されていました。これは、予想された様に、私達の夜間飛行が、ホンジュラスの軍部に伝えられていない事を示唆しました。私達がテグチガルパの消灯管制を見た時、私達は夜間低空飛行に下降し、私達の全てのポジション・ライトを消しました。私達は、約60ノットでその街に向かい続けました。私達の下部の観測は、私達が、丁度、その空港の南東に位置した事を明かしました。何度となくその空港に飛んだ事が有ったので、私はその空港の周りの対空砲の位置に気付いていました。唯一クリアなエリアは、主要なターミナルでした。私達は、その街の上空で、空港ターミナルの北に移動し、主要なターミナルの上に入り、その後、地面レベルまで下降し、米軍エリアの滑走路の、約1フット上を飛びました。ホンジュラス軍のジープが、50口径の銃を私達に向けながら到着した時、私達はヘリのエンジンを切りました。米国大使館からの救急車と一台の車は、アルヴェレス将軍が捕虜(私達)を捕えるために到着するまで差し押さえられました。彼が到着した時、彼はもう一人の士官に、どの様にしたらヘリコプターが、空港と主要な軍事基地の周りに侵入出来るのかを尋ねました。私達は未だ、私達の飛行ヘルメットを被ったまま、ヘリの中で座っていました。私達が降りる事を命じられた時、私はヘルメットを脱ぎ、その将軍に敬礼しました。私は、その日の朝に、米軍のトラックに轢かれた子供を指差しました。救急車が到着し、私達はその患者を輸送しました。

その将軍は、私達を解放し、大使館へと随行しました。私が大使館に着いた時、私はウイリアム・バー、マイク・ハラリ、そしてバディー・ヤングに紹介されました。私は、その1年前に、アーカンソーのリトル・ロックで、ヤング氏とは会っていました。バー氏は、近々訪問する、ブッシュ副大統領の使者(密使)として、彼自身を紹介しました。これは、ブッシュ副大統領のための会合を設定するためにデザインされた事前交渉のグループでした。私達はカクテル・パーティーに呼ばれ、その後、地元のホテルで部屋が用意されました。私はその後、地元のドイツ料理店で、バー氏、ヤング氏、そしてハラリ氏に加わる様に求められました。私は大使館の車によって拾われました。私が乗り込んだ時、車内には、フェリックス・ロドリゲス少佐がいました。私達は、その他の面々と夕食を取り、そしてホテルにおいて会合を続けました。私はヤング氏とハラリ氏が、翌朝、私と共にパルメロラに戻る事が伝えられました。

次の日の朝、私達は、1985年3月16日付の、防衛省飛行計画書のアイテム19のリマーク・セクションにリストされた乗客達と共に出発しました。

以下は、パルメロラ空軍基地への飛行の間に、ハラリ氏とヤング氏の間で行われた会話です。その乗客達は、ヘリの騒音のために、ヘッドセットを被っていて、ヘリの機内通信システムの上で話していました。機長として、私は、私達の機内通話を一貫してモニターしていました。私は、私達の乗客達に、私が会話を聴いている事も、録音している事も助言しませんでした。

バディー(クリントンの警護主任):「アーカンソーは、武器の分野において、何でも揃える能力があり - そしてもし、私達が持っていないなら - 私達はそれを入手出来るんです!」

マイク(イスラエル/モサド):「政府規制はどうなの?」

バディー:「政府はそれを知っていて、そしてもし フェッズ( FBI などの連邦捜査官達)が小うるさく成れば - 私達はそれを知らされ、そして電話をかるんです。そうすれば、彼等は自粛させられます。」彼は周りの田舎風景を見まわしながら、こう続けました、「全く、この様な便器(糞の穴)のために、一体誰が戦いたいと言うのだろう?」

マイク:畏怖の中で彼の首を横に振りながら、こう答えました、「私達が行う事は、一国の誠実さを保つ事には全く関係が無く - 唯のビジネスで、そして発展途上国の国々は、国境を破り拡張する事が、彼等の宿命として見ているんです。私達がこの考え方を更に産出出来れば - 私達の儲けはより増るのです。私達は訓練し、武装させ -それが私達の仕事です。そして、結果的に、私達は銃のための代金よりも、遥かに価値のある商品(麻薬)を手に入れます。私達は商品で支払われるんです。」

バディー:未だに混乱している様に見えました。

マイク:「いいですか - 銃一丁と3,000発の弾丸は、1,200ドルです。1キロの商品は、大体、1,000ドルです。私達は、コントラ達に、1キロ毎に、1,500ドルのクレディットを与えます。それは1キロのコカインに対して好い値です。それは、アメリカの K-マートの特売みたいなもので - 4品お買い上げで、もれなく1品無料追加みたいなものです。私達の側は - 私達は1キロに対して1,200ドル支払い、そしてそれを12,000ドルから15,000ドルで売りさばきます。それは利益の中心でしょう。そしてその市場は、武器よりも、その商品の方が遥かに大きいんです。それは利口なビジネス感覚で - 解りますか?」

バディー:「くそ!じゃあ、貴方の仲間達は、麻薬のために武器を供給するために、戦争と革命を推進して - 私達は、交換のための数字記載されていない部分を供給し、そして私達は全員が得をするのか。くそ、何て美味しいんだ!」

マイク:「機能している時、それは良好なんですが - 誰かが、どう言いましょうか、貯金箱に手を突っ込んでいます。」

バディー:自衛的に反応しながら、「まあ、私達は(売り上げの)上から直接10%取るから、それは十分です。GOFUS はそれを長く有効活用出来ます。」

マイク:「 GOFUS とは誰?」

バディー:「クリントン知事です!それが彼のための、私達のあだ名なんです。米国の大統領のために、大統領を「 POTUS 」と呼ぶのを貴方も知っているでしょう?それで、私達はクリントンを、米国の知事と言う意味で「 GOFUS 」と呼ぶんです。何であれ、彼はそう考えています。」

マイク:「それが、アメリカにおける、貴方達の問題です。貴方は、貴方の選挙で選ばれた役人(政治家)達に敬意を持っていません。彼等は貴方が思ったよりも力を持っていて、そして至る処に耳を持っています。貴方は私の言葉を心に留め、貴方の指導者達に忠誠するべきです。特に、私の様な人に話す時は。貴方の発言は弱さを示唆し - 私達の諜報工作の分析者達が探しているものです。」

バディー:「まあ、いいんだよ、マイク。クリントンがホワイト・ハウスを目指していて、そのためには何でもする事は誰でも知っている事だから。他の誰かでは無く、私が此処にいるのはそのためなんです。私達はコカインの事も知っているし - 全くです!私は以前にも、彼(クリントン)が心配していた時にラサターと共に、リトル・ロック空軍基地まで、それを受取りに行きました。」

会話の新たな一筋が始まりました。ハラリはヤングに、誰が「プレーヤー」なのかの知識について尋ねました。彼はリストを上げました。彼は、「ボス - クリントン」から始めました。以下は、ヤングによる、プレーヤーのまとめです。

バディー:「クリントンは - 彼が監督者だと考えますが、彼は、ケイシーが許す範囲でのみの行動してます。私と私の部下達は - 夜間飛行についての不平などの - 物事に蓋を保ち - アーカンソーの人々はプライベートな人達なので - 彼等は多くの騒音などを好まず、そしてメナは活動のために好都合な場所ではありません。それは私達を、シュレッダーの前で忙しくさせ - 私が意味する事を、貴方も解るでしょう。メインな人、ダン(ラサター)は - マネーと共に彼は魔法を行い - 彼と、ジャック・スティーヴンズの間において、私達は少しも心配はありません。それから、私達にはパークスがいて - もし問題があれば - 彼の仕事です。私達は彼をアーチャーと呼び - それはケイシーとコルビー( CIA )が、私達にその地位をそう呼べと言ったコードネームです。フィニスは国外の、私達のドロップ・ゾーンです。ナッシュは - 彼は唯の、ボスの「イエス」マンです。個人的に、私は彼が過ちだと思います!シールと彼の部下達は - 私は彼の態度「運転は私達に任せろ!」はお気に入りです、」と彼は述べ、シールの良き OB のことわざを引用しました。

マイク:「貴方はシールに好意的なの?」

バディー:「勿論!彼は私が信頼する唯一の人で - 尊敬がその言葉です。」

マイク:「貴方は頻繁に、彼に会うの?」

バディー:「ああ、勿論。私達はクリントンの乗り物(女性達)を送り込む前に試験運転します、知ってるでしょう?(彼は笑い、彼の腰を前後に振りました。)ねえ - 1週間にどれだけのコカインが造ることが出来ると貴方は思いますか?」

マイク:「あるキャンプは、1週間に400キロ産出出来ます。その他は、大体、その半分です。ですがそれは、此処における私達の活動に限ってです。私達は世界の様々な地域からの源泉を持っています。何故、尋ねるのですか?」

バディー:「え?いや、知事が私達の(生産)能力を知りたがっていたので。

マイク:「そのチームには、その他に誰がいるの?」

バディー:「まあ、どうでしょう、私は貴方に誰を伝えたのか、忘れてしまいました。」

マイクは記憶から、リストを言い直しました。

バディー:「OK 、生産者達がいて - まあ、その2人は・・・」

テープが止まりました。

私はそれらの名前を認識しませんでした。そのテープが終わった直後に、私の(タイプライターの)キーボードの上の紙が無く成りました。ジョンソン&ジョンソンの様な名前でした。その飛行は続き、そしてその大体において人々についての会話も続きました。私達は着陸し、そして私はオペレーションズに行き、私が電話を通して提出した飛行計画書の裏にメモを記述しました。

1985年3月16日の飛行計画書
1 Graph11

1985年3月16日の飛行計画書(裏)
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テイタム・クロニクル: エピローグ
http://whatreallyhappened.com/RANCHO/POLITICS/MENA/TATUM/tatum.html

6か月後に、ビル・クーパーとバズ・ソーヤーは、ニカラグアにおいて撃墜され死亡しました。彼等のキッカー(?) - ユージーン・ハセンフスは、サンディニスタ達によって捕えられました。クーパーとソーヤーが死んだ3か月後、1985年3月30日に、ノース氏によって預言された様に、バリー・シールは、ルイジアナのハーフ-ウェイ・ハウスで殺害されました。

1986年3月に、私はオリヴァー・ノース中佐からの連絡を受け、ペガサスとコードネームされた特別作戦のグループへと、強制的に参加させられました。私は、米国大統領のために、直接働くのだと伝えられました。私は、1986年4月に、43,394.40ドル支払われ、医療的な退役を与えられました。私は、1986年5月に、新たな任務へと報告しました。

それに続いた数年間、私はブッシュ氏によって、1988年のモサドのエージェント、1989年のある一人の発展途上国の大統領、そして1991年の中央アメリカにおける、革命的な勢力の指導者の、中性化(暗殺)を命令されました。

アミ・ニルは、1988年に死亡しました。

グスタヴォ・アルヴェレス将軍は、1989年に死亡しました。

コントラの指導者で、コカイン生産所の監督だった、エンリケ・ベルムーデスは、1991年に死亡しました。

1992年に、私は一人のアメリカ人を中性化する事を命じられました。私は拒否しました。私はその日、ブラック・オペレーションの部隊を離れる決心をしました。私がコルビー氏に、私の決断を伝えた時、彼は私に、唯で辞められると思うなと言いました。私は彼に、去った者達の運命を私は理解していると伝えました。その理由のために、私は私の活動をフィルムに収め、録音し、書類のコピーを取っていて、それらの全てを私はずっと収集していました。私はフィルムと録音テープが、私の安全を確保するために、世界中の戦略的な(安全な)場所に隠されている事を伝えました。

私は、私の言葉を守りました。長い間私は、私の上司達の違法的な活動の、私の知識に関する沈黙を守って来ました。ですが、私がブラック・オペレーション・グループから「引退」した2年後、私は、コルビー氏とロドリゲス氏に接触され、私の書類を渡さなければ「どうなるか」と警告されました。

今、私の書類を渡す事は結末を意味する事を、私は知っています。長年に渡る私の忠誠は裏切られました。選択肢も無く、私は長年収集してきた書類の位置を公表する事を選びました。ですから、1994年に、私は、ホンジュラスの士官の所有にあった、元々の飛行計画書を探し始めました。

記録(このクロニクル)に含まれた全ての飛行計画書と説明のページは、ホンジュラス政府の役人によって供給されました。1985年にその役人は、その書類の示唆に気付いていて、安全保管のためにその飛行計画書と説明のページを確保しました。私はオリジナルの書類を、1994年に捜し始めました。1995年の初めに、私はその書類を所有していると主張する、ホンジュラスの役人によって連絡されました。彼の命の安全を恐れたために、その役人は、ホンジュラスにおける待ち合わせをアレンジする様に求めました。1995年4月25日、私達(テイタムと彼の妻)は秘密裡に、ホンジュラスのサン・ペドロ・スラで会い、其処で彼はそのオリジナルの公式なコピーを提供しました。コカインの産出と密輸に直接拘わったブッシュ氏クリントン氏、ノース氏、ロドリゲス氏、そしてその他の起訴を求めるために、司法によって必要とされるまで、彼が、元々の書類を預かる事が同意されました。

ホンジュラスにいる間、私達は知られていた米国のエージェントに後をつけられていました。幸運にも、私は直ぐに彼を探知し、私達の会合が邪魔され無い様にし、ホンジュラスの役人の正体を守る事も出来ました。私達が書類と共にマイアミに戻ると、私達の車は車上荒らしされ、その中にはその他のものと一緒に、コロラド・スプリングに止めてあった私達の車の鍵を含む、ブリーフケースが盗まれました。その書類は、しかしながら、そのブリーフケースの中にはありませんでした。それらは、私の体に、テープで貼られていました。私の妻が、彼女の鍵のセットを持っていたので、私達は幸運でした。私達が米国に戻って2週間後、私と妻は、FBI によって拘置されました。私達の家の物は、連邦のエージェント達によって没収され家宅捜査されました。彼等は、探していた書類を見つけられませんでした。その後、私は逮捕され、保釈金無しで拘束されました。保釈金無しのために与えられた FBI の理由は、私が最近、海外に旅したためと言う事でした。私は、故に、逃亡の恐れがあるとされました。私の妻、ナンシーには、FBI によって服と車の鍵が返還されました。彼女は、出所して、戻って来るなと伝えられました。ナンシーに返された鍵のセットが、2週間前にマイアミで、ブリーフケースと共に盗まれたものと同じだったのは、興味深い事でした。

1996年2月、2人のシークレット・サービスのエージェント達が、フロリダのタンパで囚われていた私の下を訪れ、長年を通して、私達の安全のために、私が準備した書類をもし私が渡さなかったなら、私は国家反逆罪で有罪とされ、処刑されるか、一生刑務所で過ごすかのどちらかだと警告されました。1週間後、とても奇妙な状況の下で、私が米国保安局に囚われている主な罪は、国家反逆罪に成りました。

タンパ・トリビューン紙のレイ・ロッカー(813-259-7915)が、デーヴィッド・サマー、タンパ・トリビューン紙、電話番号813-259-7600から受け継ぐ。

1996年5月4日

郡の刑務所の囚人は、奇妙な国家反逆罪の罪に問われている

デーヴィッド・サマー著、トリビューンのスタッフ記者、タンパ - ドイス・ジーン・テイタムは、国家反逆罪の罪で、ヒルスボロ郡の刑務所の中で座っているが、何故なのかはを誰も知らない様です。

テイタム、45歳は、彼の自論を持っていると言います。詐欺の罪の裁判を待つ間、彼がカンボジアへの秘密裡の「片道の任務」に送られると言われた、ヴェトナムにおける戦争捕虜の体験についての本を書いていました。

ですがその本は、CIA のブラック・オペレーションにおけるエージェントとしての後の働きには触れないと、モーガン通りの刑務所からの電話インタヴューの中でテイタムは述べました。多分、誰かが、物事がそのままで留まっておく事を確かにするように試みているのだろうと、彼は言います。

刑務所の役人達は、テイタムが、米国保安局の要請によって、国家反逆罪で囚われていると言います。その様な起訴は高度に異例です。彼等は、テイタムが、連邦に対する詐欺の罪で囚われているのでは無いと述べましたが、その(詐欺罪の)裁判の陪審員の選択は、月曜日に米国地区判事、ヘンリー・リー・アダムス・ジュニアの前で開始される予定です。

テイタムと、法廷の記録によって彼の恋人で、ナンシー・フリラヴの別名を持つとされる、共同被告人、ナンシー・ジェーン・テイタム(妻)は、ドイス・テイタムが、政府に差し押さえられたハドソン・ゴルフ・コースを運営していた際に、82,000ドルの連邦のお金を横領した罪に問われています。

タンパの連邦囚人達を監督する、デーヴィッド・ジェイコブス米国副保安官は、彼の記録によると、テイタムは、唯一詐欺の件について囚われの身にある事を示すと言いました。

「彼のファイルには、国家反逆罪に関連したものは、全く何も無い、」とジェイコブスは述べました。

連邦の検察はその罪について何も知らない、とアシスタント米国弁護士(検察官)、ギャリー・モンティラは言いました。

「CIA の連中は、一般的にはその他の種の諜報工作の罪に問われます、」とその検察官は述べました。「私の考えでは、それは手違いか、何らかの気味の悪いジョークです。」

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