9.11: ツイン・タワーは何処に行った?

Dr. Judy Wood IRREFUTABLE (HD Full Length)
ジューディー・ウッド博士 否定不可能(全編)

ジューディー・ウッド.com

ツイン・タワーは何処に行った?
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うんぬん

FBI 長官のジェームズ・コーミーは、今直ぐ逮捕されなければならない

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(CNN) オバマ米大統領が米連邦捜査局(FBI)の新たな長官に、ブッシュ前政権で司法副長官を務めたジェームズ・コミー氏の起用を検討していることが29日わかった。この人事の経緯に詳しい米政府当局者が明らかにした。

FBI長官の就任には議会の承認が必要。現長官はロバート・マラー氏で、米同時多発テロが発生した2001年9月11日の数日前に就任。FBI長官の在任期間は10年が通例とされ、マラー氏は11年9月に退任予定だったが、オバマ大統領の要請を受け2年限定で続投していた。

同氏は今年9月に辞任の予定。

コミー氏の公開されている経歴によると、氏はニューヨーク、バージニア両州で連邦検事として働き、テロ対策や組織犯罪掃討、詐欺事件などを担当。司法副長官だった2004年、国家安全保障局(NSA)が関与していたテロ事件などに絡む国内の盗聴計画に強く反発、辞任も一時決断したとされる。盗聴計画はその後も実行されていた。

05年に司法省を離れた後は、軍需産業ロッキード・マーチン社の上席副社長やヘッジファンド幹部などを歴任。現在は世界金融機関大手HSBCホールディングスの役員の他、米コロンビア大学法科大学院で国内治安法の特別研究員を務めている。
http://www.cnn.co.jp/usa/35032751.html

FBI Director James Comey Must Be Arrested Immediately
FBI 長官のジェームズ・コーミーは、今直ぐ逮捕されなければならない

麻薬カルテル
HSBC

Truth vs. NEW$, Inc. – July 14 – DALLAS!! Fetzer and Bennett, VITAL Viewing!!
真実 vs ニュース、Inc. – 7月14日 – ダラス! フッツアーとベネット、必見!!

強欲の帝国

強欲の帝国: ウォール街に乗っ取られたアメリカ

UBS (ユニオン・バンク・オブ・スイスランド)のアメリカ人社員ブラッドリー・バーケンフェルドは、富裕なアメリカ人の脱税幇助を専門とする部門で働いていた。UBS は10年以上に渡り、上層部が許可した組織的な活動として、秘密口座を造ったりペーパー・カンパニーを経由したオフショアへの送金を手配したり、(例えば、外国で豪勢な休暇を過ごす時に使う)オフショア銀行発行のクレジットカードを提供したりしてきていた。出張でアメリカに来る UBS の社員は、ファイルを隠すために特別に暗号化されたパソコンを持参していた。カネの受け渡しは電信送金ではなく小切手を持参するという方法で行われていた。社員達は時にはダイアモンドなどの貴重品を密輸する事もあった。彼等は同じホテルに連泊しないように指示されており、UBS のレターヘッドを使ってクライアント(顧客)と連絡を取る事は固く禁じられていた。」

「ところが、ブラッドリー・バーケンフェルドが2007年に内部告発を行った。司法省と IRS (内国歳入庁)に、UBS はアメリカ人の脱税口座に「200億ドル」預かっており、年に推定2億ドルの利益をあげていると通報したのである。IRS は後に、これ等の口座に預けられているカネを合計180億ドルと推定した。この数字からすると、バーケンフェルドの利益の推定値は恐らく実際より低いだろう。」

「2008年の一連の上院公聴会は UBS の行動を広く知らしめた。同社の幹部達はテレビ中継される中で恥をさらしながら証言したが、脱税しているアメリカ人クライアントの名前を明かす事は拒否した。公聴会からほどなく、司法省は UBS と同社の数人の幹部を告訴した。UBS グローバル・ウェルス・マネジメントの CEO で、UBS 経営会議に名を連ねているラウール・ワイルもその一人だった。ワイルは告訴後も出頭しなかったため、逃亡者とみなされる事に成った。別の上級幹部は有罪を認めて5年間の執行猶予付きの判決を受けた。2009年、司法省と UBS は訴追延期の合意に至った。この合意によって UBS は、少なくとも一万件脱税について脱税者の身元特定に協力する事と、7億8000万ドルの罰金を払う事を義務付けられたが、刑事訴追は免れた。それからほどなく1万5000人近いアメリカ人が、未申告の海外資産を自発的に申告すれば罰金を軽減するという IRS の申し出に応じた。」

「バーケンフェルドは自発的に名乗り出て UBS の脱税のカラクリを暴露したのだが、彼は訴追され、現在獄中にいる。これまでの処、この件で刑務所に送られたのは彼だけだ。

テキサス選出の元上院議員で、共和党が上院の過半数を占めていた時代に上院銀行委員会委員長を務めていたフィル・グラムは、2002年に政界を引退した直後に UBS に入り、今では同行の副会長におさまっている。上院議員時代、グラムはマネー・ロンダリングや銀行の秘密主義を規制しようとする動きに猛烈に反対していた。
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UBSの内部告発の元行員に1億ドル超の報奨金 米政府

ニューヨーク(CNNMoney) スイス金融大手UBSが米国の富裕層の資産隠しを手助けする事業を幅広く展開していたとされる問題で、この事業について内部告発したUBSの元行員に、米政府が1億400万ドル(約80億円)の報奨金(口止め料)を授与することがわかった。元行員の弁護士が11日に明らかにした。報奨金の額としては米国史上最高だという。

内部告発したのはUBS元行員のブラッドリー・バーケンフェルド氏。UBSは7億8000万ドル(約600億円)の罰金支払いと米国の顧客数万人の口座情報提出を条件に、2009年に米政府と和解した。

弁護士によれば、これまでに米国の顧客3万5000人以上が海外に開設した口座を米国に移し、米政府は追徴課税や罰金など総額50億ドル以上を徴収したという。

米内国歳入庁(IRS)はバーケンフェルド氏に報奨金を授与したことを確認し、「内部告発者の情報は、脱税対策において重要な役割を果たす。報奨金は法の順守に力を入れる我々の姿勢を反映したものだ」とコメントした。

バーケンフェルド氏自身もUBSの脱税ビジネスにかかわったとして、09年に禁錮3年4カ月を言い渡されている。現在は釈放されて自宅からの外出禁止を命じられ、大統領の恩赦を求めているという。

同氏は11日にワシントンで記者会見した親族を通じ、「この日は来ないと思っていた」「私はスイスの銀行が何世紀もの間行ってきた不法行為を独力で変えさせた。だがそれを告発する勇気を持った唯一の人物として、大きな代償を払った」との談話を発表した。
http://www.cnn.co.jp/business/35021654.html

UBSの内部告発者バーケンフェルド元受刑者、仏で別件の証

スイス銀行最大手UBSグループの脱税ほう助を内部告発した同グループの元行員、ブラッドレー・バーケンフェルド元受刑者が同行の別の詐欺事件に関連してフランスで証言することを 米連邦地裁判事が許可した。元受刑者は刑務所で服役した後、1億400 万ドル(現在のレートで124億円)の報奨金(口止め料)を得た。

フロリダ州フォートローダーデール連邦地裁のウィリアム・ズロッチ判事は17日、バーケンフェルド元受刑者がフランスのギヨーム・デーフ判事の下で27日に証言するためパリに渡航することを認めた。デーフ判事はUBSが税金詐欺で得た利益の洗浄にかかわったかどうかの捜査を統括している。

バーケンフェルド元受刑者は2008年に脱税ほう助の共謀罪を認め、ズロッチ判事から3年4月の禁固刑を命じられた。米国生まれの元受刑者は数千人に上る米顧客の脱税をUBSがどのように手助けしたかを当局に証言。UBSは09年、訴追を逃れるため7億8000万ドルを支払うとともに、脱税ほう助を認めて数千のスイス口座のデータを提出した。

12年8月に仮釈放された後に元受刑者が内部告発で受け取った報奨金は米史上最高。元受刑者の保護観察期間は11月28日に終了する。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2015-02-18/–i6a5qsk5

最後の告白

Deathbed confessions, photos support claims that George H. Scherf(f), Jr., was the 41st U.S. president
死ぬ間際の告白、ジョージ H. シェーフ(f)ジュニアが、米国の第41代大統領であったと言う主張を補佐する写真の数々
アイダホ・オブザーバー紙、2007年4月より:

http://www.proliberty.com/observer/20070405.htm

1 bushmengkorz

オットー・スコルツェニーによると、写真に写っているのはシェーフ家と何人かの友人達(1938年撮影)です。左側で、シェーフ「母」の手を握っているのがマーティン・ボーマンです。その前にいるのがラインハルト・ゲーレンです。背後にいるのはジョセフ・メンゲレと、彼の右が、若き日のスコルツェニーです。中央右で(ドイツ海軍の制服を着ているのが)ジョージ H. シェーフ・ジュニアと、彼の父、ジョージ H. シェーフ・シニアです。ボーマンは、ヒトラーの命令系統において、第二位に成りました。ラインハルト・ゲーレンは、ペーパークリップ作戦においてドイツから救出された、SS (ナチス親衛隊)の士官の主任で、暗殺者でした。スコルツェニーは、ヒトラーの護衛で、戦後にペーパークリップ作戦の下で米国に来た、SS のスパイ/暗殺者でした。スコルツェニーと GHW ブッシュは、「ワイルド・ビル」ドノヴァンとアレン・ダレスと共に、ナチス( SS )の諜報工作機関を OSI (OSS?)と共に融合させ CIA を形成した功労者でした。これらの男達はまた MK-ウルトラの様な CIA の洗脳の実験の一部でした。 SS の士官で医師の、アウシュビッツの悪名高く、非人道的な「死の天使」ジョセフ・メンゲレは、戦後にドイツからアルゼンチンへと逃れました。ジョージ H. シェーフ・ジュニアは、GHW ブッシュとして米国の第41代大統領と成り、そしてジョージ H. シェーフ・シニアは、ニコラ・テスラの「信頼された助手」でした。

あなたが読む直前にあるのは、1990年代において著者であり歴史家のウェブスター・タープリーによって先駆けされた研究を超えた一歩で、元ヒトラーの護衛だったオットー・スコルツェニーの証言と、彼の写真の箱によって、死ぬ間際に供給された「手掛かり」に大きく基づいています。1999年におけるスコルツェニーの死以来、彼が供給した様々な手掛かりが調査され、最初の一見においては、憤慨させられた老人の、信じられない戯言の様に現れるものを、補佐する証拠があります。私達が公に利用可能な公式の記録、個人的な手紙、自伝、新聞の記事、写真とその他の「手掛かり」を調べた際に一貫的だったのは、(現存している)ブッシュ家の記録が、非-一貫性と謎のパズルの宮殿(宝庫)だったと言う事です。第二次世界大戦の間にプレスコット・ブッシュがナチスと事業を行っていたのは、議会的に確立された事実なので、私達はブッシュ/ナチスの関係が存在していたと確かに云えるでしょう。ブッシュ家とは誰なのでしょう?彼等はどの様に、ナチスとの関係を得たのでしょう?その関係は、米国の大統領達、ジョージ H.W. ブッシュと、ジョージ W. ブッシュを通して、未だに健在なのでしょうか?その答えは、私達がそれらがそうであると望む程、文字通りではありません。ですが私達にはオットー・スコルツェニーの証言と彼の写真 - 特に右側の一つ - があります。ですから:「ブッシュ」家は、アメリカを破壊するために創造されたと言う奇妙な結論を指摘する調査の第一部へと、私達は進みましょう。

ドン・ニコロフ著

アメリカの学校において歴史について私達が教えられたものは、歴史では無く、おとぎ話でした。もっと上手く言えば、それは、その真の遺産と、新世界秩序(NWO)をもたらすために策略された、国家反逆と転覆の行為について、疑いを持っていなかった社会を騙す様に意図されたプロパガンダ(扇動)でした。あなたが学ぶ寸前にあるのは、人類の完全な奴隷化を目論む秘密結社のために、あなたの国家に侵入した者達の本当の正体です。過去において、自然資源、エネルギー(電力)、食料、そして – 極少数の超富裕層の奴隷としてでは無く - 神によって自由意志を行使する事を与えられた、自由な男達、女達、そして子供達としての、私達の主権者たる権利に対する様々な陰謀論について記述されました。

「研究」は、事実を確立し、新たな結論に至るための素材と情報源への慎重な調査と検証です。これは重要な研究です。先入観を持たずに、慎重に読んで下さい。水道水と歯磨き粉の中のフッ素(塩化フッ素)の使用を考えると、あなたは既に拒絶にあるかも知れません。フッ素は、虫歯予防だとされ(私達は伝えられ)ます。読者であるあなたは、それらが本当に機能しているのかを判断する事が出来ます。あなたの水道水と歯磨き粉にそれらが加えられる本当の理由は、あなたが精神的に、そして身体的に穏やかに成り、そして故に、無関心に成るためです。

思考の問題

あなたが、その唯一の目的が、惑星全体を支配する事である秘密結社の一員であると想像してみて下さい。もし、あなたの計画が、あなたの意図した被害者達によって気付かれる事無く、この目的を達成するには、秘密主義が欠かせません。あなたの組織は、表面上は偶発の事態の出来事の様な(自然災害、人工的な病気、殺害行為、暗殺、テロ、通貨と電力供給の操作、食物の汚染、自然資源の汚染、そして戦争)歴史的な出来事の一連を演出します。それらの出来事のタイミングは、我慢、慎重な計画、信頼の地位にいる者達からの協力、ステルス、そして偽りを必要とします。本質において、その作戦の全体は、偽り秘密主義を通してその力を発揮させなければならず、そしてマスター・プランを有さなければなりません。

このマスター・プランの計画者達は、誰だったのでしょう?私達は点と点を一つの線に繋げるので、一緒についてきて下さい。

マスター・プラン:

銀行家達の到着

20世紀に入り始めた時、ゆっくりと米国の政府を乗っ取る計画が展開し始めました。2つの世界大戦を開始したナチスのマシーンについては、多くの研究が記述されましたが、外人の金融家達と、私達が「政治家」と呼ぶ事を好む役者達の足取りを辿った人はあまりいません。

船舶事業の記録、乗客の記録、そしてウォール街の金融的な取引を簡単に見ると、この同じマシーンによって計画された偽りのパターンが示唆されます。政府的な機関と、それらの選挙で選出された役人達からの協力の度合は、恥ずべきなだけでは無く、あからさまに国家反逆罪的でした。

彼の著書、「ジキル島からの生き物」¹ の中で、著者 G. エドワード・グリフィンは、1913年において連邦準備制度を創造した秘密裡の会合を描写しました。その計画の設計者は、イングランドとフランスのロスチャイルド銀行を代理したポール M. ウォーバーグ(デル・バンコ)で、そして彼の兄弟、フェリックスは、ドイツとオランダのウォーバーグ銀行の代表でした。重要だったのは、連邦準備制度(個人銀行)についての最初の「公式な」メディアの報道が起こったのが3年後だった事で:「レズリーの週刊誌」² の中で B.C. フォーブスは、共和党の上院議員、ネルソン W. オルドリッジと、世界において最も強力な6人の銀行家達との間の、秘密裡の会合を描写しました。この会合が秘密裡に、人里離れた島で行われた事自体が - 機能していた偽り、秘密主義、そして国家反逆罪のレベルを示唆します。

ポール・ウォーバーグ

ドイツ人国籍のポール・ウォーバーグが、(ヨーロッパから)米国の金融を操作するよう設計された連邦準備銀行法に結果した、(1,750ページによって構成された一冊である)金融的な書類を作成するに十分な英語を話せたこと自体、小さな達成ではありませんでした。特に興味深いのは、1913年における米国への彼の到着と、その後に指揮されたこの金融的なクーデターの以前に、どの様にそれらの重要な人脈を確立出来たかでした。ウォーバーグは、アメリカに来る前から彼の共謀者達を知っていたはずでした。

米国へのポール・ウォーバーグの旅の最初の公式な記録は、1903年10月13日の、エリス島における到着の際の皇帝ウィルヘルム2世号の乗客リストの中に現れました。³ 公式な乗客のリスト(の7行目)に「P. ウォーバーグ、35歳;職業:銀行家;国籍:アメリカ人;家系:ドイツ人;最後の住所:ハンブルグ;最終目的地:ニュー・ヨーク;自宅:82番通り東3丁目、ニュー・ヨークとあります。

実際に、ポール・ウォーバーグは、1903年において、彼がアメリカ人だったと主張します。この主張は、1903年において、正当だったのでしょうか?

この1903年10月13日の乗客のリストにおいて特に興味深いのは、エリートの金融的なコミュニティーのその他の著名な乗客が、その同じ乗客リストに載っているためです。(ゴールドマン・サックスで有名な)ハリー・サックスが乗客として載せられていますが、ウォーバーグとは異なり、彼は、彼の行き先や、彼の住所を宣言する必要がありませんでした。実際に、船と乗客の到着のエリス島のデータベース(資料)の293ページに載っていた30人の乗客の内で、P. ウォーバーグだけが、彼の行き先の宣言を必要とされた、唯一の乗客でした。

これは、ウォーバーグの国籍を確立する試みだったのでしょうか?

怪しくも、その資料からのそのページの半分が消失しており、ですから私達は、彼の出身地や、この機会における彼の身体的な特徴に関する適切で「公式な」情報を得る事が出来ません。ニュー・ヨークの港への、未来の到着は、それらの問題に、もっと光を当てるでしょう。1903年10月13日の移民局(入国管理事務所)による記録保持は、単にいい加減なだけではありませんでした。ウォーバーグとその他の乗客達は、法によって必要とされた延長まで調べられず、入国するにおいて特別ですが違法的な考慮によって補佐された様に現れます。それ以前とそれ以後の到着とは異なり、入国管理局員達は、特に行先と出生地に関して、彼等の職務において目をつむり、そして明らかに不注意に成る事を許され(または指示され)ました。

ドイチランド号での)ウォーバーグの米国への2度目の到着は、彼の最初に類似していました。1905年において未だに「米国市民」でしたが、彼は「商人」に降格されました。⁴ しかしながら、1906年における3度目の到着の際に、ウォーバーグは、再び、「銀行家」でした。この(3度目の)旅において、「以前に米国には1度も来た事が無い」と彼が宣言した時、彼の記憶は彼から失われていました。以前の旅では一緒に旅した彼の妻も、2人の子供達もいませんでした。彼はまた、米国における住所を彼が持っていないと宣言した際に、ニュー・ヨークにおける彼の自宅についても忘れてしまいました。この訪問においてウォーバーグは、「ドイツのハンブルグ」を彼の出身地として宣言しました。

驚く事に、後の米国への訪問において、ウォーバーグは、彼が、彼の市民権を与えられた場所と日付として、「1911年3月21日のニュー・ヨーク市の巡回裁判所」を引用する事によって、彼が公式に「帰化した市民」であると主張しました。ウォーバーグのそれ以前の主張にも拘わらず、彼はその時まで米国の市民として宣言されていませんでした。ウォーバーグはそれによって偽証を犯し、それは入国管理局員達によって何度も見逃され、それぞれの機会において、国家反逆罪の行いでした。1910年、1912年、そして1913年のその後の米国への訪問の間、彼の米国市民権を再び主張する間、ウォーバーグは、ニュー・ヨークの80番通り東17丁目を彼の住所として言及しました。パリとロンドンのロスチャイルド銀行との彼の関係と、アメリカでは無くヨーロッパの彼の定住的な自宅は全く一度も口にされませんでした。何故、偽ったのでしょう?

ジェームズ・ローブ

負けず劣らずニュー・ヨーク市の銀行業の企業、クーン、ローブ & Co. 社のジェームズ・ローブは、1903年10月13日に、ウォーバーグと共に旅しました。ローブはこの旅において、彼の米国の市民権を宣言しましたが、1910年においては、出身の国を全く宣言せず、記憶喪失を患っていた様ですが、その後の1912年には米国の出入国管理局に対して、彼の出身地が、ドイツのミュンヘンの西にある小さな町、「ランズブルグ」であると宣言しました。

ローブは(この旅において)、彼が「ウォーバーグ氏と共に」滞在していると示唆しました。

記憶喪失はその(20)世紀の変わり目に、殆どのドイツ人の銀行家達が患った流行病だったのでしょう。その病は其処に留まらず、直ぐに大学へと広まりました。ハーバード大学出版は、1933年における彼の死の1年後に、正にジェームズ・ローブその人によってハーバード大学に遺言で譲られた、ローブ古典図書館の設立者のために、記念的な伝記を出版しました。「ジェームズ・ローブは、ソロモンとベティー(ゴールドバーグ)・ローブの息子として、1867年8月6日に、ニュー・ヨーク市において生れました。ソロモンは、銀行業の企業、クーン、ローブ & Co. のパートナーであり、設立者でした」とその賛辞は始まりました。⁷

確かに、ハーバード大学はローブが何処で生れたかを知っていたはずで、その問題に関して、ローブも知っていたはずでした。もしこの引用が真実なら、1912年において彼が「ドイツのランズブルグ」で生れたとローブが(出入国管理局に対して)明言した原因は何だったのでしょう?

それは果敢な試みでしたが、ハーバード出版の伝記は、ローブの出身地の問題を殆ど正当化しませんでした。

それでも、もし、何らかの混乱が残ったなら、米国の出入国管理局は、1903年と再び1910年においてそれが得た情報に基づいてはっきりとさせる事が可能でした。ですがそれは、その機関の意図ではありませんでした。出入国と帰化の機関の職員達は、ジェームズ・ローブの真の出身地と、後のドイツのナチス党の支援者達との彼の関係を隠蔽(いんぺい)した事において共犯者で、エリス島とニュー・ヨークの港に保管された、いい加減で不完全な記録によって助けられ補助された行為でした。実際に、彼はニュー・ヨークに住み、働いて、ハーバード大学に在籍したかも知れません。ですが、1942年に発覚するまで、マネーの洗濯の活動を通してナチスを支援した銀行と、クーン、ローブ & Co. 社が持っていた関係を考慮すると、ローブは(ウォーバーグの様に、この「マスター・プラン」の)発案者の「血統」を保つための彼の役割のために育成された可能性が最も高いでしょう。

そのハーバード出版の伝記の中には、再び、上述された記録の上に基づいた、その他の矛盾が存在します。「1891年の冬において、過度な病(恐らく鬱)のために、彼は事業を諦める事を余儀なくされ、そして彼はスカンジナヴィアを旅しながらその夏を過ごし、1902年1月1日に再発した健康問題(記憶喪失?)のために引退するまで、再び銀行業に戻りました。」

ジェームズ・ローブは、もし彼の帰りの旅において泳いできたのでは無いのなら、1892年の間に旅をして、米国に帰って来るのは不可能でした。(ヨーロッパからの皇帝ウィルヘルム2世号に乗った)エリス島への3度の航海の最初は、以前にも記述された様に1903年10月3日に到着しました。もし、彼が何らかのその他の秘密の場所に到着したのでは無いなら、ニュー・ヨーク以外の入港の地点に彼が戻った可能性は低いです。そして、1903年には、間大西洋の航空便はありませんでした。ハーバードの逸話は、何らかの闇の秘密を隠す事を意図した作り話だったはずです。

ハーバードと、ボストンとニュー・ヨークのその他の教育、医療、そして芸術機関に、多大な寄付をローブが行った事を考慮すると、その父の会社が2度の世界大戦の前と間に、「マスター・プランの計画者達」の戦争マシーンを支援していたドイツの銀行家としてよりは、博愛主義者で「鬱病」の被害者(大西洋横断水泳には全く適さない)としてローブを描く方がハーバードにとって最も有益だったのでしょう。

その伝記の更なる記述によると、「彼は、ニュー・ジャージーのシュリュースベリーの、より静かな彼の農園に引退し、1905年においてドイツに移住し(第一次世界大戦の間の期間を除いて)1933年の彼の死まで、彼は其処に滞在しました。

明らかにハーバードは、1910年と1912年にローブがニュー・ヨークに到着した(連邦政府によって記録された)2度の更なる旅について知らなかった様です。(時には米国市民として、時には外人としての)ローブのニュー・ヨークへの帰りの旅が、外国の組織としての連邦準備制度を設立するために、彼等が策略した際の、ドイツ系のウォール街の銀行家達とのポール・ウォーバーグの会合と一致する様に調整されていたのは、偶然ではありませんでした。

「卒業の際に彼は、パリとロンドンにおいて、エジプト学を研究する事を、彼の恩師である友人の、チャールズ・エリオット・ノートンを通してオファーを受け取りました。」

ウィキベディア.org の彼の伝記によると、ノートンは、ハーバード大学における芸術の歴史の契約された教授」で、「1856年から1874年まで、ヨーロッパ大陸とイングランドに住み、旅をして多くの時間を過ごし、」そしてアメリカの考古学協会の初代会長(1879-1890年)でした。⁸ ポール・ウォーバーグがロスチャイルド銀行を管理していたパリとロンドンよりも、エジプトの方が、エジプト学の研究に相応しい様に現れます。

ローブは1933年においてミュンヘンで死亡し、「ドイツのランズブルグ生れ」そして「ドイツ市民」で - 「アメリカに滞在した事は今まで一度も無い」と言う、出入国管理局に対する彼の1912年の主張に信用を与えました。

ニコラ・テスラ

文献的、そして歴史的な説明の矛盾に拘わらず、ニコラ・テスラは、セルビア人としてリカ郡、または現在のクロアチアの、スミルジャにおいて、1856年7月10日に生まれました。第一次世界大戦の以前には、スミルジャはオーストロ-ハンガリー帝国の国境内で、結果的に、テスラは、オーストリアに帰属した市民でした。

大司祭の階級まで出世したセルビア人の正教会の神父の息子として、テスラは彼の父の個人的な図書館にあった様々な題材の勉強をする機会が与えられました。少年の頃に彼は、彼の父に連れ添ってローマへ旅し、其処で彼は、ヴァチカンの膨大な科学的資料において保管された、あまり知られていない研究を調べる事が出来ました。

グラッツのポリテクニック・インスティチュート(専門学校)において、技術開発と物理学を学んだ後、彼はプラハ大学に在籍しました。彼は直ぐに、機械的、そして科学的な問題を解く事において、特に電気と、電力産出におけるその応用の分野において先天的な能力を発揮しました。ブタペスト、パリ、そしてヨーロッパ中のその他の街々においてエジソン電話会社の子会社で働いた後、その会社が彼に、彼の最初の仕事を与えた人、トマス・エジソンに会うために、ニコラ・テスラはアメリカに渡りました。

(エジソンが金融的な約束を破ったため/給料を払わなかったために)エジソンのために働く事に、テスラは難しさを感じていましたが、彼の研究と開発プロジェクト、そして彼の新たな発明を資金援助するために、投資家達を直ぐに見つけました。ジョン・ピアーポント( J.P. )モーガン、ジョージ・ウエスティングハウス、そしてジョン・ジェイコブ・アスターの様な投資家達は、電気、無線通信、そして物理学における彼の科学技術的な発見を資本化するための、テスラの発明家として、実業家としての精神に可能性を見出した人達でした。

米国へのニコラ・テスラの到着の唯一の公式な書類は、再びニュー・ヨークの港において記録されました。1882年4月7日、25歳のテスラは、アントワープから出港した SS ノードランド号に乗って到着しました。彼はパリで講義した後に、この旅において米国に戻りました。テスラの目的地は、ニュー・ヨークでした。そのラベルは、約700種の科学技術的な特許を彼の名の下で取り、歴史上最も多産な発明家に成った人には全く相応しくありませんが「労働者」としてテスラは移民しました。

トマス・エジソンのプロジェクトとのテスラの関連の上述の説明は、1870年代に彼を米国に位置付けます。彼の多くの科学技術的な発見が、世界圧倒と優位性にハングリーな者達の注目を引き寄せたのは確かな事でした。大々的に、テスラの発明と彼の履歴が私達の歴史の本から抹消されているのは、何故なら彼の発明と特許が盗まれ、兵器化されたためです。テスラの先進的で科学的な発見の隠蔽についても、それらの窃盗から利益した者達 - そのマスター・プランの指揮者達についても - 私達が学ぶ事は、決して意図されてはいませんでした。

テスラの成功と失敗については多くが記述されましたが、彼の科学技術を得ようとするナチスの策略を明かす、場面の背後の金融的な活動を詳細したものは殆ど無く、その間、その研究費と開発費は、(知られる事無く)米国の納税者達によって大々的に支払われました。テスラの特許の多くは、第一次世界大戦と、第二次世界大戦の前と間に、ナチスの手に落ちました。結果として、テスラは、特許の権利とその他の問題についての裁判の中に、彼自身を見つけました。

彼の特許の裁判の過半数において、彼は勝訴する事に成功しましたが、彼の科学技術は繰り返し盗まれ、ドイツのナチスとその他の外国の政府に売られ、よって彼は、彼に見合った金融的な成功を決して達成しませんでした。

彼の資本化の横領は、テスラのキャリアを通して調べられずに続きました。(スコルツェニーによると殺害による)1943年1月6日の彼の死の当時、テスラは実質的に一文無しで亡くなりました。

テスラの助手、

ジョージ H. シェーフ・シニア

新たな科学技術を発見する事における、ニコラ・テスラの成功は、多くの工業的な資本主義者達(投資家)と世界中の政府によって気付かれずにはいられませんでした。実際に、彼の発明の多くは、交流電流(AC)、電磁的なエネルギー、電気的なモーター、発電機、コイル、ラジオ配信、エネルギー節約機器、そして無線配信の科学技術の彼の発見の後に、秘密裡の政府の(兵器開発の)計画を通して、開発されました。

テスラは頻繁に、人里離れた研究所において、研究に没頭していたので、彼の金融(資金)的、そして法的な状況の多くは、彼の側近の助手、ジョージ H. シェーフによって監督されていました。シェーフは頻繁に、接近する特許の裁判、契約、提案、実証、そして金融的な状況について、テスラに助言していました。信頼出来る同僚であるならばそうする様に、シェーフは、彼(テスラ)の金融的な悪夢の成功と失敗の全てを通してテスラの横に立ち、時にはテスラが頻繁に滞在したウォードルフ-アストリア(ホテル)のつけの延期を調整し、または彼(テスラ)が行う事を契約された研究のための事前資金を獲得しました。彼のキャリアの終わりに近づき、テスラは - 当時としては大金な - 20,000ドルを超えるつけのために、ウォードルフから追い出されました。

コロラド州の、コロラド・スプリングスにおいて、テスラが秘密裡の米国政府の計画に携わった際に、シェーフはテスラの事業の状況について、彼に連絡しました。シェーフは繰り返し、縮小する資金のニュースを伝えましたが、テスラは希望一杯の未来における金融的な成功を語りました。テスラは、J.P. モーガンによって投資された資金と共に、無線電力配電の塔(ロング・アイランドのショアハムの「ワーデンクリフ」)の建設を始めました。その塔が、無料の電気とラジオ電波を配信すると、モーガンが発見した時、彼はその計画をキャンセルし、その塔を解体し、廃物として売却しました。モーガンは、アメリカ人達に、無料の電気と、テレビとラジオを受信させる事を許すわけにはいきませんでした(石油利権)。テスラはそのニュースを受けた時、大打撃を与えられましたが、彼の新たな発明を続けました。

12年程後の1918年10月14日に、シェーフはコロラド・スプリングスのテスラに手紙を書きました。その手紙は、接近する法的な問題と、弁護士的な問題の通常の説明に集中し、そしてテスラの会社の本部の住所、ニュー・ヨーク州、ニュー・ヨーク、40番通り西8丁目を含む、会社のレターヘッド(正式な書簡紙)でテスラに送られました。¹⁰ 1918年10月15日、(その翌日)テスラはシェーフの手紙に返答しました(当時に利用可能な科学技術の、私達の理解に関して、それは不可能な様に見えますが、それがその返答に記された日付けでした)。

一つの興味深い異例があり:テスラの返答は、ニュー・ヨーク州、ニュー・ヨーク、バテリー Pl.17、ユニオン硫黄 Co.社の「ジョージ・シェーフ Esq.」に宛てられていました(ユニオン硫黄会社?)。¹¹ この住所は、ニコラ・テスラの会社の場所ではありませんでした。

ロックフェラー・コネクション

記録によると、バテリー・プレース17番地は、ホワイトホール・ビルで、彼の兄弟達、ウイリアムとジョン D. と共に、其処に位置したオフィスを共にする多くの企業を所有したフランク・ロックフェラーによって所有されていました。国際ロングショアメンのアソシエーション社(ILA)は、様々な石油、鉱物の採掘、そして化学的な会社と同時に、その世界本部を其処に有しました。¹² ユニオン硫黄会社は、硫黄と石油の抽出方法を特許化した、ドイツ人の化学者、ハーマン・フラスクによって運営されていましたが、フラスクはまた、類似した抽出の方法を開発しながら(ニュー・ヨーク、ニュー・ジャージー、そしてオハイオ州のクリーヴランドの)ジョン D. ロックフェラーのスタンダード石油社のためにも働いていました。

この関連性に基づけると、ジョージ・シェーフ・シニアは、ロックフェラー家との関連を持っていましたが、この関係をテスラが気付いていたのかは明らかではありません。

フランク・ロックフェラーはまた、オハイオ州のコロンブスにおけるバックアイ鉄鋼キャスティング社への投資家でした。バックアイ社は、ハリマン家、ロックフェラー家そして J.P. モーガン(ロスチャイルド)に所有された鉄道の列車のための自動カップラーと車台を製造していました。最終的に、莫大な利益を産出した後、サミュエル P. ブッシュが、ジェネラル・マネージャーから会長へと、出世させられました。

サミュエル P. ブッシュのロックフェラー家との関係と、戦争産工業執行部(WIB)の長官としての彼のその後の地位は、パーシー・ロックフェラーの御蔭で、その戦争の間に、レニングトン武器社との契約を創造する機会を彼に与えました。

ニコラ・テスラの信頼された助手(時には「会計士」、または「秘書」として言及される)ジョージ・シェーフ・シニアは、ユニオン硫黄会社に勤めていました。通常、テスラの状況の状態を考慮すると、この関係は警告を鳴らすものではありませんでした。シェーフには、彼の家族を養うために、まっとうな給料を稼ぐあらゆる権利がありました。それが「アメリカ流」でした。ですがユニオン硫黄会社の慎重な検証は、誰かが騙されていたかも知れない事を明かし - テスラとシェーフは、この偽りの根源にいました。

ジョージ・シェーフとは、誰だったのでしょう?

ジョージ・シェーフとは、誰だったのでしょう?更に正確に、ジョージ H. シェーフ・シニアとは、誰だったのでしょう?1800年代の後期から、1925年までに、米国において生れたジョージ H. シェーフの公式な記録は存在していませんが、ジョージ・シェーフがニコラ・テスラの助手/会計士でした。もし彼がドイツ生まれだったら、彼の出身地はこの謎に何らかの光を照らすでしょうか?もしそれらが存在するなら - 恐らくそうでしょう(ナチス党と関連した個人達は、彼等の家系的な記録の全て、または一部を抹消する事が一般的であった事が明らかに成り - 私達は、「ブッシュ家」の家系図を扱うこの記事の部分において更にこれを検証します)。

オットー・スコルツェニー: SS/オデッサ/CIA のスパイ・マスターと暗殺者

ニコラ・テスラの友人達と知り合い達は、テスラの研究所の周りを常に嗅ぎまわっていたシェーフの息子、ジョージ・ジュニアについて、テスラが不満を述べていた事を思い出します。一度だけでは無く(恐らく1930年代の後期に)テスラは14歳のシェーフが、彼のノートを読み、彼の本をあさり、そして彼の研究室から小さな小物を盗んでいるのを発見しました。テスラは彼に「奇妙なジョージ」と言うあだ名を与え、そして彼を「いたずらな猿」に比べました。フロリダ州南マイアミにおけるエリック・「オリオン」(エリック・バーマン)に対する(アドルフ・ヒトラーの元護衛だった)スコルツェニーの死ぬ間際の告白によると、テスラは「若い方のシェーフを嫌っていました。」実際に、スコルツェニーによると、「奇妙なジョージ」の童話と映画は、テスラの提案によって鼓舞されていました。

奇妙な事に、奇妙なジョージのハリウッドによって製作された長編映画が全国の映画館で公開される前日に、奇妙なジョージ(そして黄色い帽子の男)の原作者、アラン・シャレック、76歳が、マイアミの自宅の車道のプラスチック製のごみ袋の山の下で殺害されているのが発見されました。端的に、オットー・スコルツェニーは、「ジョージ H.W. ブッシュの本当の正体は、ニコラ・テスラの、違法移民でドイツ生まれの会計士、ジョージ H. シェーフ・シニアの息子、ジョージ H. シェーフ・ジュニアである」と主張しました。

見間違う事が出来ない、オットー・スコルツェニーとアドルフ・ヒトラー
1 hitler otto skorzeny

千の言葉に値する:ですがこれは、1999年の後期のその日に、オットー・スコルツェニーがもたらした、唯一の爆弾宣言ではありませんでした。スコルツェニーは彼の個人的な写真の60年分に満たされた靴の箱を取り出し、バーマンにそれらを見せ、それぞれ一つ、一つを詳細に描写しました。そのコレクションには SS のナチスの軍服を着た、若き日の体の大きなスコルツェニーが、彼の総統、アドルフ・ヒトラーの隣に映っているのを見せました。そして其処には(SS のスパイで暗殺者)ラインハルト・ゲ―レン、(「死の天使」)ジョセフ・メンゲレ博士、(ヒトラーの右腕で、SS の暗殺者)マーティン・ボーマン、そして(1997年に、107歳の時に撮影された)アドルフ・ヒトラーの写真がありました。

ヒトラーの写真は、1997年8月27日に、モンタナ州の氷河国立公園のマクドナルド湖のロッジにおける「親睦会」の間に撮影されました。スコルツェニーによると、アドルフ・ヒトラーは、1997年における米国で、元気に生きていました!

スコルツェニーは其処に留まりませんでした。彼は若き日のスコルツェニー、メンゲレ、ボーマン、そしてジョージ H. シェーフ・シニアの家族の写真を取り出しました。その写真の真ん中に座っていたのは、若き日のジョージ H. シェーフ・ジュニアで、彼はスパイとして訓練され、アドルフ・ヒトラーのために働くために、アメリカに送り込まれたと、スコルツェニーは説明しました。「彼は偽の身分証明書が与えられ、プレスコット・シェルドン・ブッシュによって『息子』ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュとして養子にされた」と、スコルツェニーは続けました。「彼は、彼が18歳に成る前に軍に入るために、出生書を偽造した。彼は当時、16歳だった。」

その家族写真の中で、若き日のボーマンとシェーフは両人とも、ドイツ海軍の制服を着用していました。シェーフ(ジュニア)は後に、「ジョージ H.W. ブッシュ」として、米海軍の兵籍に入りました。

更にもっと細かい詳細において、オットー・スコルツェニーはどの様にして(CIA に書かれた歴史の本とは対照的に)女性のパイロット、ハンナ Reitsch によって操縦された飛行機で、彼がヒトラーをオーストリアへと逃亡させる手助けをしたのかを描写しました。「ヒトラーは自殺などしなかった」と、スコルツェニーは主張しました。「彼の影武者が、目の間を銃で撃たれ、そして歯の記録が、彼がヒトラーでは無かった事を証明する。アメリカ人達がそれを秘密に保ったのは、真実がロシア人達を怒らせると心配したためだ。」

エリック「オリオン」(バーマン)は、2006年1月17日の公共放送ネットワークの生ラジオのインタヴューの中で、どの様に「スコルツェニーが、1999年12月31日に死去したのか」を詳細しました。「彼の遺体は火葬され、私は彼の死亡証明書の写しを持っていて、そして私は彼の遺灰を見ました。その戦争の後、彼はペーパークリップ作戦とオデッサを通して、ジョージ・ブッシュ(シニア)が CIA を設立する手助けをしました。」

バーマンは、どの様にスコルツェニーにニューレンブルグ裁判において無罪判決が下され、そしてその後、 CIA へと引き入れられたのかを説明しました。「ロケットの科学者達だけでなく、約50,000人強の SS のナチスの戦争犯罪者達が、戦後にアメリカへともたらされました。」

スコルツェニーは当時90歳位でしたが、「とても集中力があり、とても頭脳明晰で、そして当時もとても良く動く事が出来た」とバーマンによって描写されました。「彼は当時でも歩き回る事ができ - 彼は未だにとても印象的で、私が握手した中で最大級の手をしていました。彼は6フィート4インチ(196cm)の長身で、彼の時代としては巨人でした。彼は5フィート8インチの私を遥かに見下ろしました。」

スコルツェニーが何故、この情報を彼に託したと、彼が考えるかを尋ねられた時、バーマンはこう返答しました、「私は彼の娘達の一人と付き合っていました。彼は始めから私がユダヤ系である事を知っていて、私が正直者なので、私がこれについて何かをしようと本当に試みて、それらの指名手配されたナチスの戦争犯罪者達に何らかの成敗をもたらすだろうと、彼は考えました。彼の目的の全体は・・・彼等は、ジョージ・ブッシュも含めて、彼を騙し・・・長年に渡り大量の額のお金を彼から奪いました。これは、あなたもお解かりに成る様に、彼等と御相子に成るための、彼の最後の一つの方法でした。」

ニコラ・テスラについての伝記的な記事、「凄い科学技術」が、テスラ・テク、Inc.2006年8月―10月号の第4巻3番に表れました。¹⁵ ダスティン・ウォレスによって記述されたその記事は、テスラの幼少期、彼の発明の幾つか、そして彼の最後の日々について語りました。ウォレスはこう記述しました(21-22ページ)、「追放中のユーゴスラヴィアの王が、1942年の秋にテスラを訪問しました。しかしながら、一人の秘書、シャーロット Muzar がテスラに面会しました。彼女が到着した時の彼の状態から、彼女は彼がその晩さえも生きて越えられないのではないかと感じました。テスラのもう一人の友人、ケニス・スゥエジーがその当時、彼を訪問し、彼が温かい牛乳とナビスコのクラッカーだけで生き延びていると記述しました。テスラが、彼の時間の終わりに近づいていたのは明らかでした。1942年の12月の後期に成ると、テスラは彼の最も重大な発見を分かち合うために、2人の米国政府のエージェント達と会合し始めました。それらの男達は、マイクロフィルム(撮影)するために、彼の書類の多くを持ち去りました。

「1943年1月4日、テスラの忠実な助手、ジョージ・シェーフ(シニア)が最後にテスラを訪問し、テスラは、1943年1月8日の朝、彼のホテルの部屋の中で死亡しているのが発見されました。彼は、シェーフの訪問の後のそれらの4日間に亡くなりました。」

その記事はこう続きました、「テスラの死に続き、FBI の指示の下の外人の所有物の米国機関は、テスラの書類と所有物に全てを没収しました。これは、テスラが米国の市民であった事を考慮すると、興味深い策略でした。

テスラの発明と彼の最後の日々の、この詳しい説明の重要性は、オットー・スコルツェニーの、以前には知られていなかった主張に対して、直接の関連を有します。スコルツェニーが、ナチスの SS のエージェント(工作員)達を吸収する事によって CIA を組織化する事において、ジョージ H.W. ブッシュ(ジョージ H. シェーフ・ジュニア)と関わった事を(バーマンに)詳細に描写した様に、彼は1943年1月6日に、窒息死させる事によって、ニコラ・テスラを殺害したのは、ラインハルト・ゲーレンと、彼自身であったと告白しました。

その殺害の前に、スコルツェニーとゲーレンは、「テスラの最も先進的な科学技術について、詳細に話し合い、そして彼の最も最良で、最も秘密の発明の設計図を盗みました。」

彼等は、ダスティン・ウォレスが記述した「2人の米国政府のエージェント達」だったのでしょうか?ジョージ・シェーフの、テスラへの最後の訪問のタイミングも、怪しいものでした。

スコルツェニーは、それらの魂を浄化する告白に留まりませんでした。彼は(スコルツェニーの娘を保護する事を試みていると主張するバーマンによると)、「南フロリダの彼自身、フランク・エドワード P—-、ラインハルト・ゲーレン(ハンク・ジャノヴィッツ、ウェイン、N.J.)、ジョセフ・メンゲレ博士(スティーヴン・ラベル)の偽名を説明しました。バーマンによると、「ゲーレンは、スコルツェニーによる、彼の正体と居場所の告白の後、ゲーレンは、FBI によって助言され、ゲーレン(ジャノヴィッツ)はその後、身を隠しました。メンゲレ(ラベル)は、アンチ-エイジングのホルモンの何度にも及ぶ注射と、黒髪のかつら、そして「人肉食」の一連を通して若い姿を保ちました。」

スコルツェニーの主張を幾らか調べた後、バーマンは、ナチスのスパイ達が米国の諜報工作機関の特定の機関、特にCIA によってかくまわれていると伝えるために、米国の司法局に連絡しました。「私の考えでは、それらの指名手配された SS のナチスの戦争犯罪者達、ホロコーストの殺害者達 - 基本的にテロリスト達を - 正義の下(司法)へともたらさなければならないと言う事でした。私は、私の政府に連絡し、『お~い、連中はまだ生きているぞ~』と、伝えたかったのです。私は、彼等を正義(司法)の下へともたらしたかったのです。それが、私の意図の全てでした。私は最初に、米国司法局の長官、イーライ・ローゼンバウムの特別調査事務所に連絡した、または連絡を試みました。基本的に、彼等は、え~と、それが出鱈目であると考え、彼等は私が間違っていると伝え、CIA によると、彼等(ナチス)は全て死亡しており、そして私が間違っている」と言う事でした。それが、彼等が私に伝えた事で、私が誤っていると言う事でした。」

「その夜の後、私は、え~、スコルツェニーの家にいましたが、彼の未亡人が電話に受け答えて真っ白に成り、気絶しかけました。基本的に、OSI の誰かが、私が彼等に接触し、そして私が彼女達の正体を知っていると、彼女に教えました。その夜のその後、私が帰宅している際に、一台の車が私の背後に付き、彼のライトをつけ消しして、私が停車する様に促しました。ですから私は車を止めましたが - 何か妙な事が起こっていると気付いていたので、心の準備をしていたので、誰かが私のすぐ隣に近寄り - その人の手の中には銃があったように見えたので、ですから私は、急発進しました。その時、その車の中には、私の彼女もいましたから、私は3車線の渋滞を潜り抜け、近所のショッピング・センターに逃げましたが、彼は私のすぐ後ろに停車し - 怪しい表情を私に向け - その後、数フィート下がり、いなくなりました。ですが、え~、彼等が私を暗殺しようとしていた事は、私は確かだと思います。間違いないでしょう。

バーマンはその後、その彼女がスコルツェニーの娘だった事を確認し、こう加えました、「彼女は、え~、私が知っていたと知らず・・・彼女の父親が、この全てを私に教えていた事を知りませんでした。それが、私達がもう付き合っていないかの理由です。彼女は、私が彼女の家族についての本を書いていると、政府が彼女に教えた時に、私と別れました。」

上述の明言を確認するために、この筆者はオットー・スコルツェニーの偽名への私独自の調査を行いました。スコルツェニーの CIA の名前のバーマンの「暗号的な手掛かり」を考慮した最初の詳細は、P の文字から始まる様々な名前、パーマー、パーソン、パスケル、ポーター、パウエル等々で、「パウエル」の可能性が最も高いと判断しました。その後、スコルツェニーは(彼の妻と子供達を保護する目的で)彼の「公式な」偽名について、バーマンをたぶらかし、彼の最初の名前と真ん中の名前を入れ替えたかも知れないと考えられました。

詳細な調査は、興味深い発展を明かしました。スコルツェニーには子供達がいたので、彼には妻がいた可能性が高かったです。実際に、彼には妻がいて(その時までに薄れてはいましたが)そのマスター・プランに幾らかの光を灯すかも知れない、足跡を残していました(この問題は、後に論議されます)。

「スパイ・マスター」であったオットー・スコルツェニーの人生についての更なる調査は、アルゼンチンの大統領、ホアン・ドミンゴ・ペロンの妻、エヴァ(エヴィータ)マリー・ドュアルテ・デ・ペロンとの、あまり知られていない不倫を明かします。ナチスによって略奪されたゴールドは(スイスの銀行とヴァチカンによって洗濯され、その後、ウィルヘルム・カナリス海軍将によってアルゼンチンへと密輸され)第二次世界大戦の後に、莫大な利息を上げ、彼女の死と共にエヴァ・ペロンはスコルツェニーに1億ドル(100億円)を残しましたが、それは究極的に CIA の手の内に落ちました。マネーのナチス-CIA の繋がりは明らかでした。スコルツェニーの主張に基づくと、このマネーは恐らく、ジョージ H.W. ブッシュと、彼の「ハンドラー達」の手に入りました。

ジョージ H. シェーフ・ジュニアが FBI を訪れる

恐らく、歴史上、世界で最も著名な科学者、ニコラ・テスラの死の後、FBI の長官、J. エドガー・フーヴァーは、予想だにしなかったジョージ H. シェーフ・ジュニアからの訪問を受けました。テスラの信頼された助手だった、ジョージ H. シェーフ・シニアが、FBI の悪名高い長官に、彼の十代の息子を訪問させる選択をしたのには警告の旗が建てられるべきで、多分、諜報工作のそれぞれの機関はそうしたでしょう。シェーフ・ジュニアは、フーヴァーに、彼がテスラのために働いていて、そして彼の書類と遺品の責任があると説明しました。彼はまた、「外国の政府が、彼(テスラ)の発明に興味を示しているかも知れない」と言う彼の心配を表現しました。¹⁶

シェーフ・ジュニアはまた、フーヴァーにニュー・ヨーク、ニュー・ロシェール149 secord(sic)通り」の住所を与えました(「Seacord」が正しい綴りです)。

「ニコラ・テスラの題材」についての FOIA の書類によると:「ジョージ H. シェーフ・ジュニア氏は、彼が2通の手紙を受け取った事を説明し・・・シェーフ氏は、彼が1914年におけるニコラ・テスラの同僚で、彼の父は長年、テスラ博士の個人的な秘書であったと明言しました。シェーフ氏は、リーランド J. アンダーソンも、アンダーソンの手紙の中に記述されたいずれの名前も聞き覚えが全く無いと述べました(アンダーソンはテスラの記述についての情報を求め、シェーフ家に手紙を書きました。彼は大学のための論文を書いていて、テスラの同僚と知り合い達から情報を求めていました)。

1954年2月3日)「シェーフ氏は、彼が、彼の所有の中にとても多くのテスラの記述を有していますが、外国の政府がそれらに価値を見出すか否かは定かでは無いと述べました。」

FBI に対するジョージ H. シェーフ・ジュニアの明言(またはその書類の実際の中身)には幾つもの、明らかな矛盾と不正確さがあります。この筆者は、ジョージ H. シェーフ・ジュニアの履歴への、彼自身の調査を行い、そして全ての示唆から、ジョージ H. シェーフ・ジュニアが1914年において、ニコラ・テスラのために働いていたと言うのは不可能であると結論しました。ジョージ H. シェーフ・ジュニアは1914年にはまだ生まれていなかったので、その当時、またはその後のあらゆる時に「彼(テスラ)のために働いていた」のは不可能です(「奇妙なジョージ」についての幾つもの証言に基づくと、テスラは彼の研究所の中に、彼(ジョージ・ジュニア)がいる事さえ我慢出来ませんでした)。テスラが彼を雇った可能性はとても低いでしょう。ジョン J. オニールによって、1944年に出版された本、放蕩な天才:ニコラ・テスラの人生を除いて、これはテスラがジョージ H. シェーフと言う名前の秘書を雇っていたと言う唯一の言及です。¹⁷

彼のキャリアの殆どの部分において、テスラの秘書はドロシー F. スケリットでした。スケリットとミュリエル・アーブスの両方が、資金の減少によって強制された彼の引退の当時、彼のために働いていました。その本の最後の部分の謝辞の中でジョージ H. シェーフ(シニア)は「事業の関係者」として記述され、ジョージ H. シェーフ・ジュニアがテスラのために働いていたかは全く触れられていません。

ですから何故、シェーフ・ジュニアは FBI に対して嘘をついたのでしょう?何故なら、フーヴァーに、彼の父と彼自身の正体を明かす事は、彼に取って危険であったためです。ジョージ H. シェーフ・シニアは、FBI から(テスラに帰属する)書類とその他の記録を求めるために、彼自身ではなく、彼の十代の息子を送り込んだのでしょう?何故なら、FBI の長官、ハーバート J. (エドガー)フーヴァーが、彼をジョージ H. シェーフ・シニア以外の誰かだと気付くためです。実際に、FBI と話した人物は、シェーフでは無く、代理人であった可能性がとても高いでしょう。

シェーフのインタヴューは、ニコラ・テスラの殺害、彼の特許の窃盗と秘密裡の侵害、そして幾つかのウォール街の銀行とアドルフ・ヒトラーのナチス党の間で行われたマネーの洗濯における政府の拘わりの周りの事実を不透明にする目的のために、FBI によって創造された策略以外の何ものでも無いと言う、最も高い可能性があります。ジョージ H. シェーフ・ジュニアを誰かがインタヴューしていたなら、簡単に彼は「1914年にニコラ・テスラのために働いていた」ためには、若すぎたと気付いたでしょう。

上に言及された FOIA の書類の中の訂正された明言は、何かが隠蔽されている事を示唆します。その「シェーフ」の書類は、リーランド J. アンダーソンの研究の努力を妨害し、テスラの殺害の背後の事実を隠し、そして FBI がテスラの記録、研究の書類、そして新たな科学技術を盗んだと言うあらゆる疑いを払いのけるために創造されました。

テスラの最終的な死亡まで、1年にも満たない1942年において、ニュー・ヨークのユニオン銀行業企業(UBC)の代表達が「敵国」であるナチス・ドイツと「取引」していた事が発覚したのは、既に知られていた事でした。その代表達の中にいたのはジョージ・ハーバート・ウォーカーと、オハイオ州のコロンブスのバックアイ鉄鋼キャスティング社の社長で、戦争産工業執行部(WIB)の設備部門の所長だった実業家、サミュエル・プレスコット・ブッシュの「息子」、プレスコット・シェルドン・ブッシュでした。その WIB は、最大級の武器産業の企業の一つ、レミングトン武器会社との関係を通して、東海岸のエリートの一族達との、前例の無い結びつきをサミュエル P. ブッシュに与えました。バックアイ鉄鋼キャスティング社は、ロックフェラー家、ハリマン家、そして J.P. モーガン(ロスチャイルド)に支配された鉄道産業に、彼等のタンカーと列車のためのカップリングの部品と車台を供給していました。

その場面の背後では、大司祭で枢機卿のフランシス・スペルマンが、米国における諜報工作の鍵の活動に、秘密裡に影響し(または操作し)、故に危険な可能性のある情報が一般大衆に届かない様に隠蔽する機会をヴァチカンに与えました。スペルマンとフーヴァーは、同じ「ご主人様」に奉仕しましたが、それは米国政府ではありませんでした。ニュー・ヨーク/ナチスのマネーの洗濯と戦争利益の国立保管所の記録、特にサミュエル P. ブッシュに関係するものは、「場所を造るため」に破壊されました。それらの記録は膨大な規模の陰謀における複数の秘密裡の関係を明かした可能性が最も大きいでしょう。

1942年7月15日の、ニュー・ヨーカー・ホテルにおける、テスラとユーゴスラヴィアの王、ピーター2世。今まで生きた最も優れた発明家の一人、テスラが一文無しで死に、そして彼の「信頼された助手」が、オットー・スコルツェニーと幾つもの協力証言する記録によると、「ジョージ H. シェーフ・シニア(プレスコット・ブッシュ)」だったのは不思議です。テスラは、1943年1月6日に死亡しました。
3 teslapeter

第一部の参考文献:

¹ 「ジキル島からの生き物、」G.H. グリフィン
² 「レズリーの週刊誌、」B.C. フォーブス
³, ⁴,⁵ https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Warburg
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Loeb
ハーバード大学出版、ローブ古典図書館、「私達の設立者」
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Eliot_Norton
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%A9
¹⁰ コロラド州のテスラへシェーフによって送られたテスラの会社の書類のフォトコピー
¹¹ ニュー・ヨーク州、ニュー・ヨーク市のユニオン硫黄会社のジョージ・シェーフへの返答のフォトコピー
¹² http://www.nyc-architecture.com/LM/LM011-WHITEHALLBUILDING.htm
¹³ https://en.wikipedia.org/wiki/Alan_Shalleck 、多くのインターネット・ニュースの報告あり
¹⁴ http://republicbroadcasting.org/ 調査ジャーナル・ショウのアーカイヴ、2006年1月17日
¹⁵ 「驚きの科学技術」、第4巻3号、8-10月、2006年、21-22ページ
¹⁶ FOIA/J. エドガー・フーヴァー、ニコラ・テスラについての FBI 書類
¹⁷ 「放蕩な天才、ニコラ・テスラの人生、」ジョン J. オニール、1944年

第二部:

何故、歴史上最も優れた科学者が、彼の発明が誇大妄想狂の政府と非道な組織化された犯罪者達に利すると共に、無一文で亡くなったのでしょう?何故、世界の最も利益を上げる事業が、石油、化学製品、戦争、化学薬品、「違法な」麻薬、人間の奴隷化と売春なのでしょう?何故、「民主主義」の政府は、それらの人々(国民)を、圧政的な警察国家の戦略で支配するのでしょう?何故、それらの「民主主義」は、食物、飲み水、空気、そして大地に毒を入れ;何故、それらは、それらの人々(国民)を、奴隷制へと課税し、統制(支配)するのでしょう?

あなたがそれらの問いを人間的な定義に入れた時、それを理解するのはたやすいでしょう。私達は、人々がどの様に、私達自身の影響の輪において適所を占めるのか;どの様に私達全員が、状況の与えられたセット(一連)の中で私達の好機を最大化しようと試み - そしてどの様に、幾らかの人達(犯罪者達)が、機能している枠組みの中で、成功のための彼等の道において、嘘をつき、イカサマをし、そして/または盗みを働く事に頼る事が出来るかを知っています。

このページの上の、ブッシュ家とウォーカー家の家系図を見て、そしてあなたがその逸話 - 何故、アメリカが病んでいるかの逸話、何故、彼女が病に成り、誰が彼女に毒を与えたのかの - この部分を読んであなたの頭に入れて下さい。その関係は(意図的に?)複雑で、解読する事が難しいので、私達はそれがあたかも方程式の一部かの様に、使用可能なシンボルへと、それらの短縮化を試みました。私達がこの記事の反対側に出た(読み終わった)時に、アメリカと、彼女のその昔、自由だった人々(国民)の、事前計画された破壊において最も影響力のあった「一族」について私達は、私達の頭の中に疑いは全く無く成るでしょう。

読者へのメモ:「ブッシュ」一族の歴史を定義する、年代歴的、そして家系図的な混乱のパターンを最小限化する努力において、私達は、親戚関係を表す[ガイド]を発展させ、それらの名前をより簡単に認識出来るシンボル(それらの頭文字)へと短縮し、それらの関係のある質に焦点を当てる概要に、それらを付属させました。加えて、着目されるべきは、2つの正体(偽名)を持つ人達のために、彼等は両方として象徴化され、描写されている正体を示唆するために、太文字の頭文字が使用されている事です。私達は、あなたが最初に、「個人的なキー」を理解する事を提案します。あなたがその「プレーヤー達」の機能している知識を得られれば、あなたにはこの記事を読み始める準備が整い、その中に示されている関連性を理解する、最大の可能性を与えるでしょう。私達はまた、あなたが必要なだけ、その個人的なキーを見比べる事を薦めます。

「ブッシュ」家
1.ONB (オバディア・ニューカム・ブッシュ)
2.JSB (ジェームズ・スミス・ブッシュ)
3.SPB (サミュエル P. ブッシュ)
4.GHS1/PSB (ジョージ H. シェーフ・シニア/プレスコット・シェルドン・ブッシュ
5.GHS2/GHWB (ジョージ H. シェーフ・ジュニア/ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ
5a.BPB (バーバラ・ピアース・ブッシュ)

ブッシュの個人的なキー

1.ONB - この人物が、米国を破壊するために此処にやって来た者達に何らかの関係があった可能性を考える事は、時間の無駄なだけでなく、馬鹿馬鹿しい事です。再び、都合よく海で遭難したもう一人の「ご先祖様」です。これは、賢いプロパガンダでさえありません。

2.JSB - 1825年6月15日、ニュー・ヨーク州、ローチェスター生れ、死亡:1889年11月11日ニュー・ヨーク州、イタカ/1859年2月24日に、ニュー・ヨーク州、ニュー・ヨークのトリニティー教会(エピスコパリア派からユニタリア派に改宗した牧師 - 子孫達に無視された事実)でハリエット・エレノア・フェイと婚姻。「ブリック教会」では無く、グレイス教会の教区牧師でした。また、弁護士でもありました。

ヘリエット・エレノア・フェイ - 1829年2月27日、ジョージア州、サヴァンナ生れ、死亡:1924年10月29日、マサチューセッツ州、ボストン。

3.SPB - 1863年10月4日、ニュー・ジャージー州、ブリック・チャーチ生れ(間違い:ブリック・チャーチは、ニュー・ジャージー州の市、または町ではありません)。最も可能性が高いのは、産工業的なスパイ/工作員としての、ドイツからの移民。死亡:1948年2月8日、オハイオ州、コロンブス/1894年6月27日にオハイオ州、コロンブスにおいてフローラ・シェルドンと婚姻(1930年以外、全ての国勢調査を逃れた様に現れ、故に国勢調査局による探知を逃れました)。

フローラ・シェルドン - 1872年3月17日、オハイオ州、フランクリン・シティー生れ、死亡:1920年9月4日、ロード・アイランド、ウォッチ・ヒル(交通事故)。

4.GHS1/PSB - 1895年5月15日、オハイオ州、コロンブス生れ(間違い)、死亡:1972年10月8日、ニュー・ヨーク州、ニュー・ヨーク市(「ニコラ・テスラの助手」、ジョージ・シェーフとして米国に移民)/1921年9月6日にドロシー・ウォーカーと婚姻。(ドイツの出生書は抹消)。父の出身地を一貫して誤って述べ、ニュー・ヨーク州とマサチューセッツ州を引用。1940年代における「敵国との取引禁止法違反」の陰謀において主要な役割。

ドロシー・ウォーカー - 1901年7月1日、メイン州、ウォーカーズ・ポイント生れ、死亡:1992年11月19日、コネチカット州、グリーンウィッチ。

5.GHS2/GHWB - 1924年6月12日、マサチューセッツ州、ミルトン生れ(間違い:米国海軍の兵籍に入るために偽造された出生書)。アドルフ・ヒトラーのスパイとして、ニコラ・テスラの助手、ジョージ・シェーフ・シニアの息子、ジョージ・シェーフ・ジュニアとして、ドイツから米国へと秘密裡に移民。(ドイツの出生書は抹消)。1945年1月6日、「バーバラ・ピアース」と婚姻。

5a.BPB - 1925年6月6日、ニュー・ヨーク州、ライ生まれ(間違い:1930年の国勢調査に基づくと、彼女は4歳2か月でした。正しい年齢は5歳2か月でした)。米国において出生の記録が存在しないので、ドイツから移民した可能性が最も高いです。恐らく、不明な日時と場所で死亡したウイリアム・ブラウン・ピアースとイザベル・アイアースの娘から名前を「拝借」しました。ジョージ H. シェーフ・ジュニア、別名、ジョージ H.W. ブッシュと婚姻しました。ファミリー・サーチ.org によると、彼女の両親、「マーヴィンとポーリーン・ピアース」には、子供がいませんでした。彼女の「祖母」、ケイト P. ピアースは、ドイツのバーヴァリアからの移民でした。

「ウォーカー」家

1.TWI (トマス・ウォーカー1世)
2.CTWII (キャプテン・トマス・ウォーカー2世)
3.TWIII (トマス・ウォーカー3世)
4.GEW (ジョージ E. ウォーカー)
5.DDW (デーヴィッド「デーヴィス」ウォーカー)
6.GHWジョージ・ハーバート・ウォーカー
7.DW (ドロシー・ウォーカー)

ウォーカーの個人的なキー

1.TWI - 誕生日不明、出身地不明、結婚記念日不明、両親不明。
キャサリン(旧姓不明、誕生日不明、出身地不明、結婚記念日不明)と婚姻。

2.CTWII - 出身地、イングランド(誕生日不明、出身の街不明)、1758年8月2日、イングランド、ハンプシャーの神聖トリニティー教会において、キリスト教の洗礼、死亡:「1797年頃に、海で遭難」。

キャサリン・マクリーランド - 出身、イングランド(誕生日不明、出身の街不明)1785年2月22日、イングランド、クリフトンのセント・アンドリュー教会で婚姻/死亡:1806年10月18日、フィラデルフィア州、フィラデルフィア。

3.TWIII - キャプテン・トマスとキャサリン・ウォーカーの「不問の」息子 - 誕生、1787年10月14日、イングランド/死亡:1870年6月18日、イリノイ州テーズウェル、イリノイ州、テーズウェルにおいて埋葬。

4.GEW - 誕生、「およそ1797年、ニュー・ジャージー州、バーリントン、またはマリーランド州」、死亡:1862年10月28日、イリノイ州、ブルーミングトン。トマス・ウォーカー3世の兄弟。

ハリエット・マーサー - 誕生、1802年「頃」マリーランド州、死亡:1869年10月24日、イリノイ州、ブルーミングトン。婚姻、1821年5月22日、マリーランド州、バルティモア。

5.DDW - ジョージ E. とハリエット・ウォーカーの息子。誕生、1840年1月19日、イングランド、リーズ(国勢調査に明言された様に、「イリノイ州,ブルーミングトン近郊の農場」でもミズーリ州でもありません。)死亡:1918年10月4日、メイン州、ケネンバンクポート、ウォーカーズ・ポイント。

マーサ・アデーラ・ビーキー - 誕生、1841年6月1日、マリーランド州、エミッツバーグ、死亡:「1906年の後」。1862年12月25日に婚姻。彼女の父、ジョセフ・アンブローズ・ビーキーは、1858年1月27日に、「ミシシッピー川で死亡」。

6.GHW - 誕生、1875年1月11日、イングランド、リーズ(国勢調査に対して主張された様に、ミズーリ州、セント・ルイスではありません。)死亡:1953年6月24日、ニュー・ヨーク州、ニュー・ヨーク。父、D.D. ウォーカーは、伝記の中で主張されている様に、イリノイ州、ブルーミングトンでは無く、3連続の国勢調査の中で、「ミズーリ州、マリーランド州、そしてミズーリ州生まれ」でした。

ルクレティア・ウェアー - 誕生、1874年9月17日、ミズーリ州、セント・ルイス、死亡:1961年8月28日/1899年1月17日に婚姻。

7.DW - ジョージとルクレティア・ウォーカーの娘。生れ:1901年7月1日、メイン州、ウォーカーズ・ポイント、死亡:1992年11月19日、コネチカット州、グリーンウィッチ。1921年9月6日、メイン州、ケネンバンクポートで「プレスコット・シェルドン・ブッシュ」(GHS1/PSB)と婚姻。

プレスコット・シェルドン・ブッシュ
(GHS1/PSB)

CIA によって記述された歴史の本と、ずる賢く造られた政治的な逸話によると、プレスコット・シェルドン・ブシュは、1895年5月15日に、オハイオ州のコロンブスで生れました。皮肉にも、幾らかの独立的な研究家達と、親戚達による家系図的な人物像は、彼の誕生日を、「3月の12日か13日」にします。

確かに、ブッシュの出自と家族の歴史を辿っている者達は、それを的確に捉えたのでしょう。更に、その様な著名な実業家(サミュエル P.[プレスコット] ブッシュ)の息子なら、出生書が与えられたはずで、これ等の矛盾を直ぐに全て解明させたはずです。

ブッシュ家の「歴史」は、若き日のプレスコットが、オハイオ州のコロンブスの、「ダグラス学校に在籍した」とします。この主張における問題は、1900年代にも、20世紀の殆どにおいても、コロンブスにおいて、ダグラス学校が存在していなかったためです。

ですから私達は此処で、歴史の本と現存の家系図的な記録の中に入る2つの反論可能な主張を有し:プレスコット・ブッシュのオハイオ州における、誕生日、出身地、そして彼の学校です。

ブッシュ一家の伝記はその後、彼の1908年から1913年の、ロード・アイランドのニューポート近郊の、男女共学のエピスコパリア派の学校、「セント・ジョージ学校への入学」を描写します。(全く存在していなかった学校に通った後に)彼がどの様にして、お金持ちのためのこの著名な学校に「転校」出来たのかは、多くの推測のための可能性を残します。それは今日、中3から高3までの高校レベルの機関として機能しますが、1896年において設立されたたった12年後に、その学校がどの様なレベルの学力を必要としたのかは、鮮明ではありません。

セント・ジョージの公式なウェブサイトの最近の投稿は、あたかもそれが、ブッシュの学歴の神話に対して、更なる信用を与えるかの如く、「第43代大統領(ジョージ W. ブッシュの祖父(プレスコット・ブッシュ)」が、その学校の卒業生だったと自慢しました。¹⁸

今日その学校は、57種のカレッジと大学と結びつきを共にした、大学入学許可(推薦)のプログラムを提供します。

プレスコット・ブッシュの数々の伝記は、1917年における、イェール大学からの彼の卒業を記述しますが、学科について記述は全くありません。イェールからの彼の卒業の前に、更にもう一つの異常が現れ、1916年におけるコネチカット・ナショナル・ガード(コネチカット州兵)への彼の兵籍です。

その矛盾した日付は、其処で終わりませんでした。1917年から1919年の、米陸軍における兵役の任務の間、1918年8月8日に、「迫って来た砲弾を大型のナイフで反らせ」3人の連合軍の指導者達の命を救いました。彼の勇敢さの結果として、彼は「(フランスから)誇りの軍隊勲章、(イングランドから)ヴィクトリア十字勲章、そして(米国から)誇りの優等な勲章を授かり」(1919年の中頃にオハイオ州のコロンビアに彼が戻ると、ブッシュは、その捏造された「戦争英雄」の逸話(もう一つの異常)を説明する事の難しさを見つけ、そして『セント・ルイスへと引っ越しました。』」¹⁹

更に、1918年の間のプレスコット・ブッシュの行方に関するもう一つの逸話が表面化しました。(幾らかは1916年と言い、その他は1917年と主張しますが)イェール大学の秘密結社、スカル & ボーンズに入会した後、プレスコット・シェルドン・ブッシュは、オクラホマ州のシル基地近郊のお墓から、ジェロニモの頭蓋骨の墓泥棒を行ったとされます。この逸話はもう一つの神話でしかないかも知れませんが、此処まで来ると、PSB (プレスコット・シェルドン・ブッシュ)の伝記的な事実を作り話から分別する事は、とても難しく成ります。それらの逸話の重なり合う時系列は、幾つもの正当な問いを浮上させるのに十分です:

・何処で、そして誰に、プレスコット・シェルドン・ブッシュは生れたのでしょう?
・何故、この記念的な出来事の公式な記録が無いのでしょう?
・何処で、そして何時、彼は学校に通ったのでしょう?
・何処に彼の兵役的な記録は保たれ、またはそれらは、都合よく、彼の父の戦時中の事業(敵国との取引)の記録と共に、「国家記録保管局において、場所を造るために焼かれた」のでしょうか?

サミュエル P. ブッシュ(SPB; プレスコットの父)についての伝記的な説明は、彼が「ニュー・ジャージー州のブリック・チャーチ」において生れたと主張します。²⁰ この情報は、SPB (サミュエル P. ブッシュ)によって成された連邦の国勢調査への宣言によって補佐されています。(真実を未だに求めている者達にとって)幸運な事に、PSB (プレスコット・シェルドン・ブッシュ)によって行われた悪臭漂う偽り(隠蔽)を見せる更に2つの記録があります。

ミズーリ州、セント・ルイスにおいて収集された、1920年の連邦的な10年毎の国勢調査は、「プレスコット S. (シェルドン) ブッシュ、24歳、金物類店のジェネラル・マネージャー」と報告します。伝記的な説明は、GSH1/PSBの地位を「倉庫の事務員」として描写し、「金物類店のジェネラル・マネージャー」ではありませんでした。

1930年の連邦の10年毎の国勢調査は、「プレスコット S. ブッシュ、34歳の家族」を報告しました。彼の父が何処で生れたのかを尋ねられると、彼は「マサチューセッツ州」と答えました。²²

連邦政府自体の国勢調査局でさえ、この不一致を認識する事が出来ませんでした。24歳のイェール大学からの卒業生が(その後再び10年後に、ニュー・ヨーク市の34歳の銀行家が)どうすれば、彼の父の出身地について、それ程混乱していたのでしょう?

もし、SPB (サミュエル P. ブッシュ)が PSB (プレスコット・シェルドン・ブッシュ)の本当の父親では無かったのなら、それは全てを説明します。何であれ。その2つの明言は、無実な間違いでは無く、あからさまな嘘の様に現れます。ブッシュ家の伝記は、この矛盾を正す事を全くしません。

サーキット Chautauqua

1874年から1930年代の早期を通して、「サーキット Chautauqua」と呼ばれた旅をしていた社会的な「プログラム(計画)」がアメリカ中を何度も渡り、講義、「ブロードウェイ」の劇、演説者、福音伝道師、歌手、ミュージカルの一座、そしてヴォーデヴィルの様なパフォーマー達を見物した何千もの人達に娯楽をもたらしました。アイオワ州立大学の展示によると、アメリテク社によって提供された国家的な競争へと入り、サーキット Chautauqua は、世界中からの4,546名の演技者達を含みました。

元々、聖書の宣教師達を教育するために設立された夏のプログラムは、その親しみのある茶色のテントの中で催された大規模な、サーカスの様なイヴェントへと発展しました。それは最も著名な政治的、そして宗教的な演説者達と同時に、文化的なパフォーマー達も出演させました。生の音楽の演奏は、オペラの演出と、ドイツからもたらされたグループを出演させた、「ボヘミア」の味わいを共にしたバンドの音楽でした。

アイオワ州立大学によると、「大統領セオドア・ルーズベルトは Chautauqua を、『アメリカにおいて最もアメリカ的なもの』と呼び、ウッドロー・ウイルソンは、第一次世界大戦の間にそれを『国家防衛の不可欠な一部』と描写し、そしてウイリアム・ジェニングス・ブライアンはそれを、『国家のマインドを形作る事における効能的な人間の要素』と考えました。」

特別な関心だったのは、箱の大きなコレクションの中に含まれていた参加者達のカタログでした。その名前はアルファベットの順番で、2つの名前が他の者達から際立ちました。一つ目は「F.E. パウエル」で、そして2つ目は「ルース M. パウエル」でした。²³ もしスコルツェニーとエリック・バーマンが両方とも真実を語っていたなら、するとこの発見はスコルツェニーの CIA の別名の公開に繋がるかも知れず、第二次世界大戦の前に彼が米国内にいた事を証明するだけでなく、彼が実際に(後に CIA と成った)OSI (OSS?) の保護の下で、米国政府のために働いていた事を証明するかも知れませんでした。

その Chautauqua の「パウエル」の手掛かりは、もう一つのパウエルの手掛かりに導きました。「ルース M. パウエル」はウェブサイト上で、「引退した諜報工作員達のアソシエーション」のメンバーとしてリストされていました。²⁴ 彼女が、Chautauqua の参加者としてリストされた、同じルース M. パウエルであったのは可能だったでしょうか?2人の大統領達と一人の国務長官によるコメントの上に基づいて、Chautauqua が強力なプロパガンダと諜報工作活動のマシーンだった事に疑いはあるでしょうか?

もし、ルース M. パウエルが、(エリック・バーマン同様に)南フロリダに住んでいた事が証明出来れば、すると彼女がスコルツェニー(別名 F. E. パウエル)の妻以外の誰かである可能性に対する倍率は天文学的に成ります。そしてもし F.E. とルース M. パウエルが第二次世界大戦の以前に米国に住んでいたなら、すると彼等はナチスのスパイで、サーキット Chautauqua は彼等に、完璧な隠れ蓑を供給しました。

結局の処、南マイアミの最近の電話番号のリストに、「E. パウエル」の名前が見つけられました。バーマンとスコルツェニーの両方の話しが、この電話番号(と住所)の記録によって両方とも補佐されていました。

アイオワ州立大学のサーキット Chautauqua の展示の凝縮版が近年、議会の図書館によって出版された時、「F.E.ルース M. パウエルの名前が何故かマスター・リストから消失しており、彼等が実際に、米国の諜報工作機関のために働いたスパイ達で、そして彼等の名前は意図的に削除されたと言う私の主張に、更なる信憑性を与えます。その参加者達の名前は、分類へと再編成されていました。理解可能な事に、「スパイ」のための分類はありませんでした。

ジョージ H. シェーフ(f)シニア
(GHS1/PSB)

最も知覚過敏な読者だけが、一つの「f」を共にする「Scherf」の綴りにおける意図的な変形に気付いたでしょう。綴りにおける変形は何故でしょう?その問いは、ジョージ H. シェーフ・シニア(GHS1/PSB[プレスコット・ブッシュ])の本当の正体と、彼の本当の使命の、より詳細な検証の後に答えられるでしょう。

形而上学的な象徴性を使用するアドルフ・ヒトラーの傾向と、オカルトの闇の側との彼の執念を考慮すると、例外的に秘密裡の作戦:ナチスの目的に同情的なアメリカの銀行を通して、盗まれたマネーを送り、洗濯し、盗まれた科学技術から科学技術的に、そして金融的に利益し、そして賄賂、脅迫、殺害、そしてスパイ活動を通して米国政府を転覆させる作戦のために彼が選ばれた事と共に、GHS1/PSB)の名字が関連している可能性があります。

その苗字「Scherf」の以下の翻訳は、その名前のオカルトな(隠された)意味の上に幾らかの光を当てるかも知れません。

以下の引用は、http://scherf.com/club.htm のウェブサイトからの直接取られた引用です:

SCERF:ドイツ語とユダヤ的(アシュケナージ);中期高ドイツ語。シェーフと名付けられたラインランドにおける場所から、またはウォーバーグ近郊の Scerfede からの在住的な名前。(メモ:「アシュケナージ」と言う言葉は、ドイツのためのヘブライ語から派生します。アシュケナージ系のユダヤ人は、フランス、ドイツ、そして東欧のユダヤ人達です。)」

SCHERFLEIN:もし誰かが、何かのための貢献として「彼のシェーフレインを与える」なら、それが意味するのは、より大きな全体のために、少々のマネー、またはその他の小さなギフトを与える事です。1「シェーフ」はキャロリング王朝の時代、(8世紀と9世紀)0.5ペニー、または1 obol でした。その名前は、尺度、または測量の最も小さな単位を意味するラテン語の scripulum から由来し、scrip, scirp, scerp, から古高ドイツ語の scerpf へ、そして現在のシェーフに変化しました。Scripulum は、scrupulum の、より一般的なヴァージョンです。一般的な口語においてその表現は、一般的な小さな貨幣に応用されました。」²⁵

スコルツェニーは、シェーフ家についての、幾つかの内通的な情報を持っていました。結局の処、彼は、彼の SS (ナチス親衛隊)の同僚達と、彼がとても若かった時に、ドイツのシェーフ家の実家で、彼等と写真を撮りました。この人間関係は、偶然の出会いの産物では全く無く、どう見ても明らかにその写真は、「マスター・プラン」を思い出させるものとして、厳しい時代を通して大切にされるための記念品に成る様にデザインされたものでした。

そのマスター・プランは何で、そしてどの様にシェーフ家は、その様な特出した役割を果たす様に成ったのでしょう?

GHS1/PSB とニコラ・テスラ:ニコラ・テスラは、歴史において最も多産な科学的な発明家としての彼の運命を満たすために、オーストリアから米国へと移民しました。もし、(アメリカにおいて開発され、盗まれた科学技術をヒトラーに供給する目的のための諜報工作において訓練された)シェーフ達が、先進的な兵器と世界征服のためのヒトラーの絶える事の無い熱望の役に立つためには、彼等はテスラの影響範囲の内輪に入り込まなければなりませんでした。この使命は、偽り、ステルス、秘密主義、そして金融を必要としました。祖国を離れる前に、シェーフの公式な記録と家系の歴史は、(彼等の計画の予期され無かった失敗であった – スコルツェニーの個人的な写真のコレクションを除いて)処分されました。

この記述以前に、GHS1(ジョージ H. シェーフ・シニア)/PSB (プレスコット・シェルドン・ブッシュ)についてはあまり知られていませんでした。彼の最初の義務は、ミドル・ネームへのあらゆる言及を省略する事で、ですから「H」は排除されました。その後、その問題を混乱させ、誰かが彼の出自をドイツまで辿る事を妨げるために、その Scherf(f)の名字に一つの「F」が加えられました。それらの2段階は、全く不可能では無いにしても、ドイツにおける家系図的な調査を極度に難しくしました。ドイツの家系図的な記録とデータベースの中で(2つの F の)Scherff の綴りはとても珍しいです。しかしながら、米国においては、正反対が事実です。「ダブル-F」の綴りはとても一般的で - とても一般的過ぎて、ジョージ「Scherf」が米国に到着したと言う記録は一つしか存在しません。オットー・スコルツェニーのシェーフ家との親交は通常、諜報工作のコンテキスト(文脈)においてだったので、彼は常にその綴りが「アメリカ化された」ヴァージョンであると推測し、それはまた、ニコラ・テスラについての記述において出版されたヴァージョンでした。スコルツェニーは、しかしながら、GHS1/PSB のミドル・ネームの頭文字(H)を覚えていました。

GHS1/PSB について何の歴史があるでしょう?彼が、彼自身でドイツを離れた後の、(ニコラ・テスラとユニオン硫黄社との彼の人間関係を除いて)最初の記録は、「1913年度と1914年の3月31日に終わる」ニュー・ジーランドのウェリントンの代議士議会の年鑑禄(AJHR)に現れます。²⁶ シェーフは、武器弾薬、兵士達、現金、そして恐らく違法の麻薬を運搬していた蒸気船、SS サリー号に乗船しました。

その AJHR に含まれていたのは、その船の上における大規模な反乱で、数々の乗組員達が、傷害、命令不服従、任務放棄、そしてその他のより小さな余罪と共に告発されました。「熟練船員」GHS1/PSB (2つの F と共に)は、命令不服従で告発され、その後有罪とされ - 1914年の当時としては大金の – 11シリングの罰金、または2日間の禁固刑の判決が言い渡されました。どちらの刑を最終的に彼が払ったのかは記述されていません。

この隠された出来事のタイミングは奇妙にも、GHS1/PSB のイェール大学への「主張された入学」の最初の年に一致します。

明らかに、ニュー・ジーランドの代議士議会と、ニュー・ジーランドの海事博物館の両方が、「熟練船員、ジョージ Scherff」の有罪判決が、海事の歴史における重要な出来事と感じ、それは代議士議会の年鑑禄におけるその出版のみならず、ニュー・ジーランドの海事博物館自体のウェブサイトにも公表されました。年齢は与えられていませんが、彼を10代の後期から20代の早期とするのは、妥当な予測でしょう。SS サリー号の上での彼の1年のキャリアの後、GHS1/PSB は、ニュー・ジーランドの船舶の乗員名簿から消え去りました。

GHS1/PSB の水兵としてのキャリアは、(ブラウン兄弟、ハリマン & Co.社に所有され、GHS1/PSB の未来の義父である、ジョージ・ハーバート・ウォーカー(GHW)を通してアレンジされたクレジット(信用貸し)によって援助された)ハンブルグ-アメリカ線と共に、新たな生活を見つけました。

彼の名前は(2つの F と共に)様々な船舶の乗員名簿の「乗組員のリスト」に再度現れ、1920年と1921年の間、ハンブルグから、リヴァプール、そして英国領西インド諸島へ旅しました。GHS1/PSB は、「熟練船員」から「第二メイト」、「ジュニア第一メイト」、そして「第一士官」まで、進歩的に昇格させられました。彼の記録された航海の多くは、SS マウント・クレイ号の上においてで、それはハンブルグ、リヴァプール、そして西インド諸島と南アメリカの港から、定期的に出港しました。

1915年1月20日にリヴァプールから出港し、1月30日にニュー・ヨークに到着した一つの重要な航海は、SS アラビック号の上においてでした。エリス島の出入国管理局に提出された乗客名簿の1行目の上の乗客は、Dölitzsch からのドイツ市民、ジョージ Scherf でした。²⁷ Dölitzsch は、ドイツのライプチッヒの南の小さな村で、後にヒトラーの命令系統の右腕に成ったマーティン・ボーマンの地元から程遠くありません。

この公式な米国政府の書類は(出入国管理局、FBI 、そして CIA の必然的な無念に対して)ジョージ H. シェーフ一家、マーティン・ボーマン、ジョセフ・メンゲレ、ラインハルト・ゲ―レン、そしてスコルツェニーの間の「地域的」な関連性を確立し;(写真参照)シェーフ家とそれらの知られたナチスの間の第二次世界大戦前の関連性の設定を固めます。

この単一の書類は、明らかに、ナチスのスパイ達の記録の全てを抹消する慌てた努力において見過ごされ、2007年に私が発見するまで気付かれないままでした。スコルツェニーが産出し、その中で彼が、彼を含む上述されたナチスと、「ニコラ・テスラの違法移民の、ドイツ生まれの会計士」ジョージ H. シェーフ・シニアの家族を確認した写真を参照して下さい。その写真は、エリック「オリオン」バーマンの著書、ザ・ブッシュ・コネクションの中で出版されました。http://www.thebushconnection.com/ 参照)。

メモ:偽り、腐敗、窃盗、陰謀、殺害、そして国家反逆のパターンを示唆している、独立的な調査の最近の発見に加えて、証拠の多さの上に基づいて、ジョージ H. シェーフ・シニア(GHS1)がプレスコット・シェルドン・ブッシュ(PSB)の本当の正体だった様に現れます。スコルツェニーでさえ、ジョージ H. シェーフ・ジュニア(GHS2)が、GHS1/PSB の養子にされた息子だと「信じ」ました。効果的に、GHS1/PSB は、2重スパイで、ウォール街とロンドンの彼等の反対相手を、順を追って操作した、ドイツの中央銀行を操作した、ナチスの SS 組織のために主に働いていました。GHS1/PSB はニコラ・テスラの科学技術を盗み、スコルツェニーによると、「テスラから盗みまくり」ました。ナチスの第三帝国は、世界征服の彼等の目標において世界を騙そうと断固とした意志を見せていましたが、幾つかの過ちを犯しました。彼等の慎重に製造された計画は、彼等の最善の努力にも拘わらず、それ自体の欠点がありました。必然的に、強欲が「隠れた敵」に成りました。

テスラの科学技術は盗まれただけでなく、ドイツ、ロシア、そして米国の政府は、彼の最も先進的な発明を秘密裏に兵器化する事によって利益し、そしてその後その科学技術を世界の人々に対して向けました。本、新聞、雑誌の記事、そして科学的なコミュニティーの中で広められた伝記の中で、テスラの「信頼された同僚で、会計士で、時には秘書」として描写されたジョージ・シェーフは、彼の発明を盗み、プレスコット・シェルドン・ブッシュの別名の下での彼の副社長と代表の地位を通して、それらをユニオン銀行企業(UBC)に売り、ポール・ウォーバーグ(銀行家)、フリッツ・タイセン(実業家)、そして I.G. ファーベン(世界において最大の化学企業の複合体)に渡される様にしましたが - その後者の2社はヒトラーのナチス党の忠誠な実業家達でした。

「監査人」としてのユニオン硫黄会社におけるGHS1/PSB の地位はまた、偶然ではありませんでした。その会社の「社長」だったドイツ人の化学者、ハーマン・フラスクは、GHS1/PSB に、テスラの特許とそれらの金融的な価値について、彼に助言する絶好機を供給すると同時に、彼等の両方が働いていた、石油で富んだロックフェラー家への人脈でした。

彼の10代から20代の初めまで、GHS1/PSB は、船舶産業について学ぶ事において、貴重な経験を会得しました。兵士達、武器弾薬、麻薬、そして大量の盗まれた現金を運搬する事における彼の実践的な経験は - 今日のブッシュ家の遺産の様に - 彼の一族の専売特許と成りました。そして(先月の第一部の中で)スコルツェニーによって認められた、ニコラ・テスラの死の様に、シェーフ達は殺害に無関係なわけではありませんでした。ウォール街の銀行におけるGHS1/PSB の師匠達もまた、彼の2重の正体を知っていました。結局の処、彼等の多くも、「補佐された」移民、偽りの書類、そしてアメリカ社会への同化の類似した行程を通って行ったためで;彼等は同等に、SPB (サミュエル P. ブッシュ) とバックアイ鉄鋼キャスティング社、(戦争産工業執行部の会長としての彼の地位を通した)レミントン武器弾薬社、ハリマンズ、クーン、ローブ & C.社、J.P. モーガン、ロックフェラー家、そして GHW (ジョージ・ハーバート・ウォーカー)との彼の関係と共に行われた事業から利益しました。

GHW 、サミュエル P. ブッシュ(SPB)、GHS1/PSB の一族達(そして彼等のピアースの親戚達でさえ)全て、「祖国」、ナチス・ドイツからの家庭的な使用人達を好んだのは偶然だったのでしょうか?「英国王室の血縁」を自称する者達の中の、何の奇妙な特徴が、彼等のドイツ料理への欲求に油を注いだのでしょう?彼等の「アメリカ人」の使用人達 - 料理人達、メイド達、看護婦達は、出入国管理局と国勢調査に対して嘘をつく様に教えられましたが、100年後に彼等の偽りを発見する独立的な研究者がいるなどと全く思ってもいませんでした。(メモ終了。)

同時的に、ハンブルグ-アメリカ線は、ブラウン兄弟、ハリマン & Co.社、UBC 、GHW と GHS1/PSB に対してもたらされた「敵国との取引禁止法」の告発において結果した UBC スキャンダルと関係していました。発覚したのはナチスが(ヨーロッパから)盗んだマネーを UBC を通して洗濯し、そしてフリッツ・タイセン、ウォーバーグ兄弟、I.G. ファーベン社、そしてその他を通して、アドルフ・ヒトラーに、それを送り戻していた事でした。ナチスの目的を補佐し、SPB とロックフェラー家の様な連中を金持ちにさせる武器弾薬と石油の船舶輸送は、1942年に止められましたが、配当金は第二次世界大戦の後に結局その共謀者達に対して支払われました。GHS1/PSB は、彼が所有した UBC 株式の一株の価値であった、150万ドルを受け取りました。UBC の総資産は当時、40億ドルを超えると推定されていました。

ウォール街の(国家反逆罪で裁判に欠けられるべきだった)国家反逆罪者達に対する更なる辱めを避けるために、国立記録保管局は「場所を造るため」に、関連した記録を「焼却」し、一時的に SPB の評判を救いました。それらの書類の破壊は、この「一族」の、ナチスと事業を行う親密な関係を現したその他の政府の記録を抹消するには至りませんでした。

上記に言及された(1930年の)国勢調査の記録は、ブッシュ家とウォーカー家が、ドイツ人の仲間を好む更に幾つかの「傾向」を詳細します。サミュエル P. ブッシュは、「1907年」に、ドイツの Urbach から米国へ移民したエマ・シグラーを、メイドとして雇用しました。エマは、彼女の雇い主と同様に、(1902年において彼女が19歳だったと言う出入国管理局に対する彼女の宣言の上に基づいて)37歳であるべき彼女の年齢を(28歳と)誤って明言しただけでなく、彼女の到着の日付け、そして彼女の本当に意図された行先 – SPB の自宅も誤って明言しました。エマは - 国勢調査局に対する彼女の宣言の5年前の - 1902年9月15日における、ニュー・ヨークの港における彼女の入国を「忘れました。」此処における要点は、それらの機会に彼女が何歳であったかに関係なく、一つ、または両方の機会において、彼女が出入国管理局の役人達に対して嘘をついた事です。²⁸

「ウォーカー」家

TWI:ウォーカー一族は、キャサリン(旧姓不明)と婚姻したトマス・ウォーカー1世(TWI)と共に始まり、突然、現れます。記録によると TWI とキャサリンの両方は、誕生日不明、出身地不明、両親不明、そして婚姻の日付け不明です。彼等の婚姻は、しかしながら、記録された一人息子を産出し、1758年8月2日に生まれ/キリスト教の洗礼を受けた、トマス・ウォーカー2世でした。²⁹

CTWII:「キャプテン(船長)」トマス・ウォーカー2世(CTWII)は、1785年2月22日に、キャサリン・マクリーランドと婚姻しました。CTWII とキャサリンのための誕生の日付と場所は不明ですが、CTWII の「キリスト教の洗礼」の日付けは1758年8月2日として記録され、イングランドのハンプシャーのゴスポートの神聖トリニティー教会においてでした。CTWII とキャサリンの婚姻は、「一人」の子供を産出し、1787年10月14日に生まれたトマス・ウォーカー3世(TWIII)でした。

興味深い事に、TWI と CTWII の両方が「キャサリン(Catharine/Chatherine)」と婚姻した事で、どちらとも誕生日も出身地が不明でした。「Catharine」は旧姓さえ持っていませんでした。明らかに、キャサリンも、彼女の義理の娘、キャサリンも、両親が不明で、両方とも「イングランド」で生れたとされたにも拘らずでした。

CTWII は1797年(日付け不明)に海において死んだと報告されますが、彼が船で旅をしていたのか、または唯単に泳いでいただけなのかは不鮮明です。

CTWII が死亡したまで、CTWII とキャサリンの間の2番目の子供については、全く記述されていません。反対に、ジョージ E. ウォーカー(GEW)が産まれた時、その兄、TWIII は、全く記述されていません。

GEW:ジョージ E. ウォーカーは、幾つもの伝記によると、1797年、または1798年頃に、「ニュー・ジャージー州、またはマリーランド州のどちらか」で生れました。GEW は、1811-12年から、「孤児」として、マリーランド州、エミッツバーグの(全寮制の)マウント・セント・マリーズ・カレッジに在籍しましたが、彼を其処に送った「法的な保護者」については不鮮明です。³¹

兄弟? TWIII GEW の両方が、イリノイ州のブルーミングトンへの彼等の道を見つけましたが、彼等の関係は怪しい事に、米国における公式な記録から削除されています。それは、この「王族的な秘密」が誰にも発見できない様にするためで – つまり、「Catharine」と「Catherine」は同一人物で、TWI と CTWII を産み、そしてその後、彼女自身の息子(CTWII)と結ばれ、TWIII を産んだのでしょうか?私達はまた、CTWII が GEW の父だったと憶測は可能で、GEW にはウォーカーの苗字が与えられましたが、定かではありません。

Catherine は、1806年において、ペンシルヴァニア州、フィラデルフィアにおいて死亡しました。

GEW は、1864年10月28日に、イリノイ州、ブルーミングトンにおいて死亡しました。

TWIII は、1870年6月18日に、イリノイ州、テイズウェルで死亡し、イリノイ州、ブル―ミングトンにおいて埋葬されました。

DDW:1881年の英国の国勢調査によると、GEW の息子、デーヴィッド・デーヴィス・ウォーカーは、1840年1月19日に、イングランドのリーズにおいて生れました。1881年の国勢調査によると、DDW の息子、GHW は当時6歳で、そして「学者(?)」として描写されました。彼の誕生は、1875年か1874年だったでしょう。³²

GHW:ジョージ・ハーバート・ウォーカー。ウォーカー一家は既に、服の製造の事業に就いており、米国への彼等の到着の際も、その産業を彼等は続けました。

GSHI/PSB の未来の義父は、乾物において取引する事によって、彼自身を事業の世界において確立させました。彼のキャリアは、ミズーリ州、セント・ルイスの彼の父、デーヴィッド・デーヴィス・ウォーカーの、イーライ、ウォーカー & Co.社と共に始まりましたが、彼は最終的に、UBC の閉鎖に関連した取引のスキャンダルにおいて役割を果たしたニュー・ヨークの銀行において、パートナーに成りました。

1900年、1910年、1920年、そして1930年からの国勢調査は、ナチスとの事業を行った者達に怪しくも再発するパターンを明かします。ブッシュ一族の父方を襲った「記憶障害」が伝染的に成り、GSH1/PSB の義父にも広まりました。例えば1900年の米国連邦の10年毎の国勢調査の中で、GHW は彼の父が「ミズーリ州」で生れ、そして彼の母が「ミズーリ州」在住と宣言しました。³³

しかしながら、1910年の米国連邦の10年毎の国勢調査の中で、彼の父は「マリーランド州」生まれで、彼の母が「ミズーリ州」在住でした。³⁴

ずる賢い GHW は、1920年の米国連邦の国勢調査の中で、彼の父は「マリーランド州」生まれで、今度は彼の母もまた「マリーランド州」生まれと宣言しました。³⁵

あたかも彼自身の混乱を晴らすかの如く、1930年における米国連邦の10年毎の国勢調査の間、GHW はその輪を完全に一周し、再び彼の両親は、2人とも「ミズーリ州」において生れたと主張しました。³⁶

GHW の両親が、ミズーリ、マリーランド、または両方において生れたのかは問題ではありません。その本当の問題は、彼の父、DDW が、ウィキペディア.org における伝記によると、「イリノイ州、ブル―ミングトン近辺の、彼の両親の農場で生まれ育った」ためです。

間違いなく、DDW は、彼の息子、GHW に、彼の幼少期を教えたでしょう – つまり、もし GHW が本当に彼の息子だったなら。彼の母、マーサ・アデーラ(ベッキー)が、マリーランドのエミッツバーグで生れたと、 GHW が気付くまで20年かかりました – つまり、もし彼女が本当に彼の母であるならです。³⁸

GHW の国勢調査の宣言の背後の事実は、それら自体のために語りますが、その話は其処で終わりません。その様なお粗末な家系図の記録の保管は、「英国の冠の血統」であると自称する者に相応しく有りません。

GHW の伝記は、彼が1875年6月11に生まれたと同意します。何故、彼は国勢調査局に対して - 1度でも、2度でも、3度でも無く、4度、彼が1874年に生まれたと主張したのでしょう?間違いなく彼は、彼自身の正確な誕生日を知っていたはずです。

ウォーカー/ブッシュ一族の「ルーツ」を明かすはずの記録の発掘の上で、人が経験する混乱は不可解です。2つの家系は言うまでも無く1つの一族が、特にその様な「王族」の血統が、不明の誕生日、早過ぎる死、「海における」埋葬、そしてその血統の外のものによって産出された子供の出来事においてそれ程多くの偶然を経験する可能性はとても低いです。

もし人がそのマスター・プランを解読するなら、すると人はその計画を造った者達の様に考えなければなりません。事実の湾曲と隠蔽に溢れている、その計画を熟成させていて、行っている「登場人物達のキャスト」に関するあからさまな嘘は、数世代を超えて、彼等の常套手段です。

あたかもその記録を正直な体現として、そのパッケージ全体を私達に受け入れろと挑戦する様な - あからさまな嘘と、事実の湾曲と隠蔽のこの蜘蛛の巣に、私達は編み込まれた真実の要素を見る事が出来ます。

ブッシュ家、ウォーカー家、銀行家達、そしてナチス - 更にヴァチカン

ウォール街の銀行家達は既に、ヨーロッパにおける彼等の反対部分 - ロスチャイルド家、ウォーバーグ家(デル・バンコ家)、そしてイングランド銀行との、彼等の関係を確立していました。それらの関係は、G.H. ウォーカー & Co.社(ウォーカーの投資会社)に、GHW が求めていた国際的な信望を与えた出来事の一連によって強化されました。

セント・ルイスにおける、1904年の世界万博の組織の先頭を務めた後、ジョージ H. ウォーカーは最終的に、投資企業、W.A. ハリマン & Co.社の社長に成り、ハンブルグ-アメリカ線を買収するにおいて、アヴェレル・ハリマンを補佐しました。最も腐敗したニュー・ヨークの銀行の援助を共にしたこの船舶会社は - その戦争の前と後の両方における - 米国へのナチスに侵入のために、殆ど主要な責任がありました。今日、その完全な協力が、ニュー・ヨークの港の管理、移民と帰化サービス、そして米国政府の頂上までの要所、要所の役職と個人達の完全な操作を得る事によって確保されたのは明らかです。

ハンブルグ-アメリカ線が可能にした「保護」のレベルと共に,マネーは UBC とブラウン兄弟ハリマン社へと輸送される事が可能で、究極的に、洗濯された後、ドイツのヒトラーへと送られました。ですがナチスは、その略奪の唯一の利益者ではありませんでした。ナチスは、更にもっと不吉な権力 - ヴァチカン、イエズス会、そして「黒い教皇」の手先でしかありませんでした。

戦争を行うための兵器は、ドイツと、ヨーロッパ全体のその他の港へと、簡単に輸送される事が出来ました。前述された様に、サミュエル P. ブッシュは、戦争産工業執行部(WIB)の代表として、WIB が指揮したそれぞれの戦争の両方の側に対して武器弾薬を取引する事から利益を上げた、ロックフェラー家、J.P. モーガン(ロスチャイルド)、クーン、ローブ & Co.、ブラウン兄弟ハリマン、ユニオン銀行企業(UBC)、ジョージ・ウエスティングハウス、そしてその他の裕福な実業家達のために、契約を確かにする事が出来ました。SPB の「息子」、プレスコット・シェルドン・ブッシュ(GHS1/PSB)が、その会長(そして当時、すでに義父だった)GHW に UBC の副社長とパートナーに任命されたのは、偶然ではありませんでした。

ウォーカーに、その様な権力と影響力を奮う事を許したのは何だったのでしょう?間違いなく、(彼、彼の一族、そしてその他が、当時も、そして今日までも利益する)世界中で戦争の永続的な形成に対して金融的に貢献する彼の積極性と、銀行業における彼のうなぎ上りの台頭を可能にした者達との彼の連合でしょう。誰が GHW と協力したのかの手掛かりは、彼の個人的な伝記の中で明かされます。

自称エピスコパリア派の GHW は、彼の「ウィキペディア」の伝記によると、「彼の教育の一部を、イングランドのストーニーハースト・カレッジで過ごしました。」³⁹ その伝記は、GHW が米国に到着する以前に学校に通っていたかは特定しませんが、彼、そして彼の父も、米国側への彼等の到着の後に、彼等の事業を立ち上げるための着手金(または完全で金融的な後ろ楯)を持っていたのはとても可能でしょう。

また、ウィキペディアによると、1900年に、GHW は「・・・G.H. ウォーカー & Co.と名付けられた銀行業と投資の企業を始めました。」

彼の父の出身地に関する GHW の不確かさに基づいて、国勢調査の様な政府の機関にその情報を正確に供給する可能性は低く、ですから GHW は4度「予想し」そしてそれぞれの機会で間違いました。

上述された説明から、連邦準備銀行が設立される、少なくとも7年前に、ヨーロッパからニュー・ヨークへと、ポール・ウォーバーグ、ジェームズ・ローブ、そして少なくともハリマン兄弟の一人が、一緒に旅をした事を、私達は知っています。恐らくイングランドのイエズス会によって、事前にその人脈が指揮されていなかったのなら、ジョージ・ハーバート・ウォーカーが、そのエリートの金融的な輪の中のプレーヤーに成れた可能性は低かったでしょう。

GHW はまた、1900年の前に、メイン州、ケネンバンクポートにおける東海岸に、「複合施設」を確立しました。この複合施設の重要性は、ニコラ・テスラの無線電報の発明に関連した機密文書の中にあります。

1899年にテスラは、彼自身の発明である無線電報システムを、灯台66番(LV)に設置するために、海軍少将フランシス J. ヒギンソンと米国財務省によって委託されました。⁴⁰ この出来事の後の出版は、「マルコーニの無線システム」が1904年に設置されたと描写しますが、その逸話はテスラの科学技術の背後の事実を隠す様にデザインされ、故にこの発明とその他の関連したラジオの配信と受信の窃盗から注意を反らしています。

この計画は、その前者、「ワーデンクリフの塔」に似ていましたが、其処まで複雑ではありませんでした。テスラの多目的の研究の計画は、無料の無線電力と無料の通信(画像と音)を世界中の一般大衆のために開発する事を意図していました。

テスラが、彼のロング・アイランドの施設を、「無線による電力と照明の目的のための電気的な力の送電を共にした・・・」実験を行う事を意図していたのは真実である間、彼は繰り返しワーデンクリフの施設の主要な機能が、世界的な無線通信と放送であると鮮明にしました。

例えば、ウォルター W. マッシー & チャールズ R. アンダーヒル著の「無線の技術の未来、無線の電報 & 電話」(1908年、67-71ページ)から:⁴¹

「それは、描写された施設と共に、それらの原則の実践的な実証を与える事を意図されています。完成されれば直ぐに、ニュー・ヨークにいるビジネスマンが、彼の指示を口伝で伝え、そしてロンドン、またはその他の場所の彼のオフィスにおいて、それらが一瞬にしてタイプされて現れるのが可能に成るでしょう。彼は、彼の机から、その現存している道具において全く何の変化も無く、世界中のあらゆる電話の使用者達に電話をかけ、話す事が出来るでしょう。腕時計程度の大きさの、安価な道具はその所有者に、どれだけ遠距離であろうとも、その他の場所で発せられた音楽や歌、政治的な指導者の演説、著名な科学者の講義、または聖職者の雄弁な説教を、海の上でも、陸の上でも、聞く事を可能にするでしょう。その同じ方法で、あらゆる画像、キャラクター、絵、またはプリントが、一つの場所からもう一つの場所に転換されるでしょう。その様な道具の数百万個が、この種の施設の一つから機能させられる事が可能です。この全てよりも更に重要なのは、しかしながら、電線無しの電力の送電で、納得させられるのに十分に大きな規模において実証する事です。」

テスラとマルコーニのシステムの比較を含む、「真の無線」は、この結論を確認します。⁴²

「1899年に既に、テスラは無線通信のための、移動可能なシステムを開発する事を意図していました。これは、以下に続く2通の手紙から見られる様に、コロラド・スプリングスの実験所にいた間の彼の使命の一つでした。

国務省
灯台執行部の事務所
ワシントン、D.C.
1899年5月11日
ニコラ・テスラ氏
46 ヒューストン通り
ニュー・ヨーク市、ニュー・ヨーク州
親愛なる、サー:

私は、ナンタケット島の約60マイルに位置する、マサチューセッツ州、ナンタケット・ショールズの、灯台66番の上に、無線電報のシステムを設置する事を貴方が出来るか、あなたに尋ねたいと思います・・・

この提案を、なるべく早く貴方が考える事を、私は望んでいます。

謹んで、
(署名)
フランシス J. ヒギンソン
海軍少将、米国海軍、
議長。

そして、コロラド・スプリングスの実験所からの、1899年7月の手紙の中で、テスラは彼の助手にこう書きます:

親愛なるシェーフ氏、

私達は、可能な限り早く、この小さな4つのサイズの機器の追加された下書きが完成される事を望み、それらはそれぞれのサイズが2つずつあるべきで、つまり、全部で8つです。それらはウールマン氏が間違いなく理解する様に、クロックワークス(灯台の管理?)に行かなければなりません・・・

・・・私は(政府のために)ナンタケットの施設のために、私自身を準備させていて、私が戻る前に可能な限りの働きを行いたいので、可能な限り急いでこの仕事を行ってください・・・

謹んで、
N. テスラ

これ等の手紙は、1899年に既にテスラが無線通信の科学技術を発見し、そして政府が興味を持っていた事を記録します。そのナンタケットの施設はまた、ウォーカーズ・ポイントからも、便利な距離にありました。また、着目してもらいたいのは - もし私達が、彼が1895年に生まれたと信じるなら - 1899年の日付けはシェーフを4歳位にします。(この記事の以前に記述された1918年からの、テスラとシェーフの間の2通の手紙を思い出して下さい)。

この一連のタイミングが偽造されていると言う更なる証拠は、短い新聞の記事、「テスラのシステムを試験するために」、ブルックリン・イーグル紙、1899年9月によって供給されます。⁴³

灯台執行部が議会に資金割り当てを求める(イーグル紙への特別記事)
ワシントン、9月7日
 - 「灯台執行部のメンバー達は、ファイアー島において無線電報と共に、ある大規模な実験を彼等が行う事を可能にするために、来る下院議会の開催の間に資金の割り当てを求めるつもりです。この計画は、それが最終的に灯台と人命救助システムにおいて大きな役割を果たすであろうと信じる、ヒギンソン海軍小将と、この執行部のその他のメンバー達によって評価の高いものです。

「ヒギンソン海軍少将は既に、テスラ、電気的な専門家、そしてこの題材に関心のある、ニュー・ヨークのその他の人達と幾つかの手紙を交し、今度の秋に何らかの半-公式な実験が行われる事は可能です。その執行部のメンバー達は、ナンタケット、またはファイアー島と本土のいずれかから働くでしょう。現在、障害にある最大の問題は資金の欠如で、あらゆる種の実験のための資金の割り当てが利用可能では無いためです。1917年において、テスラが激しい銃撃を受けていたのは可能ですが、それは確かに、彼自身の銃からのものではありませんでした。」

上述の引用の最後の一行は、不透明なだけでなく、ミスリード的です。ヒギンソン海軍少将による元々の要請との関連性は疑わしいのみならず、その書類は、その元々の公表の約18年後において日付が加えられる事によって改竄されました。

テスラは、政府、またはそれらの手先達を信用しなかったと、伝記の記述者達は同意します。そのヴィジョンが、全ての人類のための、無制限で無料の無線電力と無線通信だったテスラが、彼の発見を盗むための、政府と産工業の悪意ある努力を挫折させるために、彼の研究と書類をコンパートメント化していたと予測されます。

テスラが誇大妄想的だったわけではありません:ナチスは(そしてアメリカ人達とロシア人達も)彼の科学技術を秘密裏に受け取っていて、その間、ニュー・ヨークの銀行家と彼等の船舶輸送のパートナー達が、多大な利益を上げました。メイン州のケネンバンクポートにおけるウォーカーズ・ポイントの複合施設は - その人里離れた場所のために - 書類、兵器、現金、そしてスパイ達を密輸する、秘密裡の港として機能した可能性があります。

[編集者のメモ:「無線技術の未来」からの、1908年の引用において描写された「テスラ」科学技術がどれだけ、私達の現代の無線の現実の鏡写しなのかに着目して下さい。また注目してもらいたいのはどれだけ現代の無線が無料ではないのかで:それは制限され、料金が取られ、規制され、メーター化され、手数料を払えば利用可能で、税金の対象で - そして監視されています]。

ポール M. ウォーバーグが最初に米国を訪れた1903年まで、主要な建物は建てられていませんでしたが、その土地が1899年に、GHW によって購入された事を記録は表します。ウォーカーズ・ポイントのその位置は、ストーニーハースト・カレッジにおける彼のイエズスの師匠達のために、GHW が直ぐに行う兵站(物資や人材の輸送)に適していました。

何世紀にも及ぶ研究は、イエズスの組織が1540年において組織されて以来、世界を支配しようとする邪悪な計画を進めていると言う、一貫的な主張を強化します。以下は、「私達の」第41代大統領の「創造」に関する、私の調査の概要です:

イエズス会:ストーニーハースト・カレッジは、主にイエズス会の影響下の「カトリック」の組織として知られ;そのカレッジはそのイエズス会との関連を自慢します。そのイエスの会、または「イエズス会」は、「弱者を、教育を通して補佐する」事によって、ヴァチカンと人類に奉仕すると主張します。⁴⁴

更なる調査は、教皇が - 黒い教皇である – イエズス会の最高指導者、ピーター・ハンツ・コルヴェンバックによって、秘密裡に操作されている事を明かします。ジェネラル・キュリア(イエズスの事業が行われる執行部)は、「ローマ」、そして更に特定的にヴァチカン(市国)の中に位置します。

イグナティウス・ロヤラの「25集会」と最高指導者の指示に従い、この秘密組織の究極の目的は、「ソロモンの寺院を破壊し、再建築し、イスラエルにおいて教皇の座を再確立する事」です。

歴史的に、イエズス会の使命は世界中からプロテスタントのキリスト教を排除する事で、米国は征服されるための最後の前線です。社会における弱者を教育し、補佐するための自己主張した使命とは対照的に、イエズス会は実際にルシファー(サタンではありません)を崇拝し、最も残虐的な形状の、人間の生贄、同性愛、小児性的虐待、黒魔術、そして殺人を行います。

その組織は(彼等の黒い教皇に敬意を払う新世界秩序/NOW の)長期的な目的を達成するために、様々な非道な策略を使用します。一つは、その要求に従う事を拒む世界の指導者達の政治的な暗殺を行う事です。米国におけるそれらの暗殺は、大統領達(アブラハム・リンカーン、JFK )、閣僚のメンバー達、議員達、上院議員達、ジャーナリスト達、科学者達、そして宗教と実業の指導者達が含まれました。

不透明化の目的と追従を保つために、イエズス会は NSA, DHS, FEMA, OSS, ONI, FBI, CIA, DIA, DEA, ペンタゴン、防衛省、NASA, 連邦準備銀行、国税庁(IRS)、議会、そしてその他の連邦機関を必要に応じて使用し(そして資金援助し)ます。

彼等の操作の下の外国の軍事的、そして諜報工作的な機関に含まれるのは、幾つかを上げるだけでも、ドイツの SS, Deutsche Verteidigungs Dienst (地下の Abwehr/DVD )、英国の MI6 と MI5, イスラエルのモサド、NATO, インターポール、KGB, チリの DINA, そして国連までも含みます。

暗殺は、上述された諜報工作機関と、麻薬取引と違法賭博における彼等のマフィアのパートナー達によって実行され、二次的な補佐が頻繁に、マルタ騎士団、フリーメイソン達、コロンブス騎士団、そしてプロパガンダ・ドゥエ(P2)によって与えられます。ジョン F. ケネディーと、何人かの以前の教皇達の暗殺の場合も同様でした。

正当に選出されたのであれ、腐敗的に任命されたのであれ、政治的な指導者達は、その組織に好ましい独裁によって入れ替えられます。政教協約を持つそれらの政府は、戦争の恐怖無しで存在する事が許されますが、革命的な運動が国際的な認識を受け取る様に成ると、その政策は頻繁に変化します。頻繁に、違法的な麻薬の取引から利益を得る事を、その組織に許す事の単純な否定だけでも、市民戦争に火が付けられる、または秘密裡の準軍事的な襲撃を開始するのに十分です。

その組織は、人の個人的な主権、言論の自由、宗教の自由、そして市民の権利の宣言が、その教義に対する呪いと考える間、米国の創造の土台である、プロテスタントのキリスト教を撲滅する事を求めます。米国政府の解体は、新世界秩序の創造における彼等の究極的な成功への鍵です。

GHW は明らかに、彼等の長期的な計画と共に、イエズス会を補佐するために活用され、結果として、彼(そして彼の事業を行った者達)は、イエズスの計画における彼の協力から多大に利益しました。

イエズスの組織の遠隔操作は、外国の国々における銀行、教会、そして「大学」の設立と制度の確立を通して保たれます。イエズスの制度であるフォードハム大学は、米国におけるヴァチカンの最上級の役人、(セント・パトリック大聖堂における)ニュー・ヨークの大司祭、ジョン・オコナー枢機卿を操作します。

銀行:数々の研究者達は、誰が世界の各政府を操作し、そしてどの様にこの操作が確立され、そして今日まで保たれているのかを明かしました。政府に提供された「好感度」の伝記、特別に委託された文学的な働き、そしてプロパガンダに溢れた教科書に公表されるのとは対照的に、ニュー・ヨークの中央銀行は、米国政府とその市民を裏切るにおいて、重要な役割を果たしました。

その様な制度の提供と操作は、秘密主義の中で覆われたままに保たれる事が意図されています。ですが、G. エドワード・グリフィン(ジキル島からの生き物)、ウェブスター・タープリーとアントン・チャイトキン(ジョージ・ブッシュ:非公認の伝記)そしてケヴィン・フィリップス(アメリカの王朝)は、幾つかの著書を上げるだけでも、アメリカ政府を転覆させ、「新世界秩序」を確立する様にデザインされた陰謀を暴露しただけでなく、新たな研究のための下地を引きました。

「陰謀論」を非難するのに素早い人達、またはその様な暴露が「人の宗教的な信仰への攻撃」と不当に主張する人達は、彼等の究極の目的 – 世界制覇 - を達成するにおいて、上述されたペテン師達を助けるだけです。

この研究は、究極に達した国際的な操り人形、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(GHSII/GHWB)の正体を明かす事無しで完全とは考えられないでしょう。

GHSII/GHWB

ジョージ H. シェーフ・ジュニアが、ニコラ・テスラの不法移民でドイツ生まれの会計士、ジョージ H.シェーフ・シニアの息子だったと言う突飛に聞こえる主張をスコルツェニーが行った時、彼は断言的でした。

スコルツェニーが知らなかったのは、以前にも記述された様に、出生時における彼の名前の正しい綴りでした。アドルフ・ヒトラーの護衛だったスコルツェニーは、ヒトラーが知っていた全員を知っていました。それが彼の仕事でした。後に悪名高いナチスの戦争犯罪者達に成る若者達を写した写真は⁴⁵、彼の同僚達には恐らく欠如していた、スコルツェニーの正直さについて多くを語りました。スコルツェニーが実際には1度も GHSI/PSB にあった事が無かった可能性があり(?)、ですから彼は、GHSI/PSB(プレスコット・ブッシュ)がナチス党のための2重スパイとして機能していたと認識しなかったかも知れません。スコルツェニーは、GHSII/GHWB (ジョージ H.W. ブッシュ)がアドルフ・ヒトラーのスパイとして訓練されたと主張しましたが、GHSI/PSB が「詐欺師」だったと全く知らなかったのは可能です。ヒトラーも、GHSI/PSB も、そのような発覚の危険を取る事が出来ませんでした。GHSII/GHWB が、GHSI/PSB によって「養子」にされたと言う逸話は、この事実と辻褄が合います。

[訳者補足:この元記事の著者が何故、一緒に写真に写っていると主張するシェーフ・シニアとスコルツェニーが、一度も有った事が無い可能性があると、矛盾して記述しているのかは不明です。後に明らかに成りますが、その著者は、スコルツェニーがシェーフ親子を、スパイとして訓練したとも主張しています。]

証拠としてスコルツェニーが産出した写真は、アルプス北部に共通したアルプス的な設定において撮られました。シェーフ家の内部と(2番目の写真からの)その家の外見の建築様式は、ドイツ東部-中央の地方のものと同じものを思い起こさせます。どうして、すると、アドルフ・ヒトラーは、その様な難しい任務のためにシェーフ達を使用したのでしょう?彼は - 軍事においてと政治的なキャンペーンの間の両方において - ベルリン、ミュンヘン、そしてその他の大都市で時間を過ごしたと知られています。シェーフ達を使用する策略は、ライプチッヒの南、約20マイルの Dölitzsch において行われました(1915年の出入国管理局に対するGHSI/PSB の宣言を思い出して下さい)。 Dölitzsch の西には Wegeleben があり、マーティン・ボーマンの故郷でした。ボーマンは、スコルツェニーとジョセフ・メンゲレと共に、シェーフ一家との写真のためにポーズを取り、ヒトラーの SS のメンバーとして彼等が全員果たす役割によって可能にされた機会でした。その3人の全てが、当時、スパイ活動において新入門者だったシェーフ達の訓練において補佐しました。

GHSI/PSB の家族は、しかしながら、元々は Dölitzsch 出身ではありませんでした彼等はドイツ北部の Cuxhaven 地方のハンブルグ近郊の港町の出身でした。ドイツの銀行業、マネーの洗濯、そして国家反逆における彼等の教育を - ウォーバーグ兄弟から - シェーフ達が受けたのはその場所においてでした。シェーフ達のボーマンとの関係は(論説、または推理を超えて)彼等がスパイ、麻薬と武器弾薬の密輸者、そして1941年に発覚し、1942年に閉鎖されるまで、ナチスを補佐していたニュー・ヨークの中央銀行家達(マネーの洗濯者達)の「事業の同僚」として機能するために、ヒトラーによって選択され訓練されたと言う土台を確立します。

1933年までにナチス党における大きな権力の地位まで台頭したマーティン・ボーマンは、成功的なドイツの実業家達からの「寄付」によって資金援助された「ドイツ産工業のアドルフ・ヒトラー寄贈ファンド」を確立し、管理しました。ボーマンはまた、暗殺者として、そして組合組織者達の脅迫者として評判を得た後、ヒトラーの事業の状況と個人的な金融の全てを管理する様に成りました。彼は、第三帝国における最も強力な指導者達の一人でした。

悪名高い「死の天使」、ジョセフ・メンゲレは、死のキャンプにおいて収容者達に残酷な生物学的な実験を行い、数千人を殺し、双子を「研究する」ための偏向を持っていたと知られています。

ミュンヘンの大学において生物学を専攻した後、フランクフルト大学の遺伝的生物学と民族的な衛生学のためのインスティチュートにおいて研究の助手として働き、メンゲレは - ナチス党の準軍事組織である - Sturmabteilung または「突撃隊員」に参加しました。彼の役割は、ボーマンとスコルツェニーのものと同等に助け合いました。

上述の男達とのGHSI/PSB の関係から、彼が「最高のレベル」によって訓練されたのは明らかです。

ブッシュ一族

GHSI/PSB (プレスコット・ブッシュ) の息子、GHSII/GHWB (ジョージ H.W. ブッシュ) の出版された伝記は、彼が1924年6月12日に、マサチューセッツ州、ミルトンにおいて生れたと主張します。

端的に、彼(ジョージ H.W. ブッシュ)は、1895年にオハイオ州、コロンブスにおいて生れ、存在しない学校に通い;その後1908年から1913年までロード・アイランドのニューポートの学校へ行き;その後、ニュー・ジーランドにおいて働いている間に、SS サリー号の上における不服従で有罪にされ(1914年);1916年にコネチカット州国立警備隊に、1913年から1917年までイェール大学に通う間に、入隊し;その後、1917年から1919年まで、フランスにおいてアメリカ遠征軍と共に駐屯されていた間に、「大型ナイフでミサイルを反らせたために」3つの勲章を受取り、その間彼とイェール大学のスカル&ボーンズの仲間達は1918年にジェロニモの墓を荒らしたとされ;その後コロンブスに戻り、彼の「英雄」談からの恥は、セント・ルイスへと彼が移動する事を余儀なくされ、其処で彼は下宿屋に住み「倉庫の事務員」または「金物類店のジェネラル・マネージャー」として働き;その後、1921年において、メイン州のケネンバンクポートにおいてドロシー・ウォーカーと婚姻し;1923年に(サミュエル P. ブッシュによって所有されたゴムの会社)ハップ・プロダクツ会社のためのセールスマンとして(「数か月間」)、オハイオ州コロンブスに戻り;その後、7か月間、マサチューセッツ州、ブレイントゥリーにおいて、ゴム化されたゴルフ・シューズの製造社(再び彼の父によって所有された)ステッドマン・プロダクツ会社のセールスの地位を受け入れ;その後コネチカット州のグリーンウィッチに移動し、其処で彼はユニオン銀行業企業(UBC)と、彼の義父、GHW との彼のキャリアを始めた人(プレスコット・シェルドン・ブッシュ)の息子です。

以下の国勢調査に含まれたデータを計算する事によって、ブッシュ家の歴史における更なる異常が現れます。一般的に、人の子供達を数え年にするのは、大人達の間では共通的な行いですが、子供達は彼等の年齢について正確に成りたいので、あなたに伝えるでしょう。GHSI/PSB の子供達は一つの例外 – ナンシーを除いて - 全て「数え年」にされています。ブッシュ家の中の誰か(恐らくナンシー自身が)、国勢調査人に、彼女の正確な年齢、4歳と7カ月と伝えました(通常、大人が彼/彼女の年齢を表現する方法ではありません)。2月4日(ナンシーの誕生日)に7カ月加える事によって、私達はその国勢調査が行われた推定的な日付けに到着し - 1930年9月4日です(その国勢調査が行われた実際の年)。⁴⁷

「1924年6月12日に生まれた」ウォーカー(これは彼が好んだ名前だったのでしょうか?)の年齢を計算した時、彼の年齢は「6歳と2カ月」であるべきです。その国勢調査は「5歳」と述べます。「ウォーカー」が誰であれ、突然、1歳若く成りました(GHSII/GHWB が GHSI/PSB の「養子」であると言うスコルツェニーの主張を思い出して下さい)。(1895年5月15日生まれの)GHSI/PSB もまた、35歳であるべき時に、1歳若く成りました。

上述に言及された「間違い」は、彼の子供達では無く、GHSI/PSB に帰属されるものです。以下は、1930年のコネチカット州、グリーンウィッチの、フェアフィールド社の米国連邦の10年毎の国勢調査から抜粋されました。

1 ブッシュ調査
プレスコット(シニア)は銀行家でした

この一つの国勢調査の報告は、幾つもの異常を含みます:

1) 夫 GHSI/PSB の不正確な年齢 - 伝記的な宣言によると、「34」歳では無く35歳であるべきです。

2) 妻ドロシーの不正確な年齢 - 「28」歳では無く、29歳であるべきです。

3) 伝記の中では「メイン」では無くオハイオ州コロンブスと宣言される、息子プレスコット・ジュニアの間違った出身地

4)「ジョージ」(GHSII/GHWB)として記述されるべき子供の、「ウォーカー」としての明記。

5)「5歳」では無く6歳2か月であるべき「ウォーカー」の年齢。

6)この「公式な」記録と、その他の知られている伝記的な情報源の全てからの、ナンシー・ブッシュの出身地の欠如(?)。

7)GHSI/PSB の父(SPB)の出身地 - 伝記的な説明によると(「ブリック・チャーチの様な町はありませんが」、「ニュー・ジャージー州、ブリック・チャーチ」であるべきです。

8)ドロシーの父の出身地 - 「ミズーリ」では無く、「イングランドのリーズ」であるべきです。

1930年の国勢調査の後、GHSI/PSB は更に2人の息子達、ジョナサン・ジェームズ・ブッシュ(JJB 、1931年5月6日生れ、出身地不明)と、ウイリアム・ヘンリー・トロッター・ブッシュ(WHTB 、1938年7月14日、コネチカット州、グリーンウィッチ生れ)を授かります。⁴⁸

再び、彼の親類の幾らかと同様に「銀行家」である JJB には、宣言された(または正確な)出身地が無い事を私達は見つけます。人はその様な記録を何処から探し始めるでしょう?ウィキペディア.org において投稿された「ジョナサン・ジェームズ・ブッシュ」の履歴は、「ホッチキス学校」からの彼の卒業を記述しますが、ウィキを通してリンクされたホッチキスのウェブサイトの「著名な卒業生」のリストの中に彼の名前は含まれていません。⁴⁹

ウィキペディアにおけるブッシュの履歴のページ上で見つけられるリンクは、元々の履歴に戻るリンクと共に JJB の誕生日をリストします(再び出身地はありません)。

家系図的なデータは、その他の頼りに成る情報源からも不在で、最も包括的なデータベース、FamilySearch.org は、「その様な記録は存在しません」と宣言します。

彼の父の足跡に続き、JJB は1991年に、マサチューセッツ州とコネチカット州における上場の違反において罰金が科せられました。JJB は再び2004年において、彼が「社長」だったリッグス銀行に対するその企業のマネーの洗濯への調査を妨害する試みのために、2,500万ドルの罰金が科せられました。

ブッシュ家のミスリード的な出自の記録は、GHSI/PSB の世代の前、または後が検証されようとも、それぞれの世代に浸透しています。例えばその一族の伝記は、SPB (GHSI/PSB の父)が、1863年に、ニュー・ジャージー州のブリック・チャーチで生れたと主張します。

「ブリック・チャーチ」は町では無く、教会です。また存在しているのは、ブリック・チャーチ駅、ブリック・チャーチ広場、そして勿論、ブリック・チャーチ・クラブハウスです。その一族が今、(この最近の暴露のために)彼が教会において生れたと主張するなら、何百ものウェブサイトに投稿され、無数の本の中で出版された家系図的なデータと同様に真実ではありません。その駅は、その広場と同様に、その教会に因んで造られました。事実、(実際にはニュー・ジャージーの東オレンジにある)ブリック・チャーチは、彼の主張された「誕生日」の15年後の、1878年に建てられ、そして「オレンジ」の中ではありませんでした。

彼の1997年の本、「ジョージ・ブッシュ:一つ星のヤンキーとしての人生」の中で、その著者、ニュー・ヨーク大学の歴史教授、ハーバート・パーメットは、SPB の出身地についての逸話を確認する、立派ですが不完全な試みを行い、それが「ニュー・ジャージーのオレンジ」と宣言しましたが - 「ブリック・チャーチ」と同じ綴りでは全くありませんでした。⁵⁰

言及は続き:GHSII/GHWB の言葉によると、彼の「父」の早期の学校に言及し:「彼の公立学校、ダグラスは、ある意味「混ぜ合わせの鍋」でした。私達は大きな黒人の人口を有していました。私達はとても大きなドイツ人の人口を有していました。実際に、その公立学校において私達は殆ど全ての民族のグループの一員達を有し、そして私は常にこれが、後の人生、特に政治における人生において、私に便利なそれらの民族問題についてのバランスの感覚を私に与えたと感じました」と彼は説明しました。⁵¹

GHSI/PSB に帰属させられたこの引用は、GHSII/GHWB から由来しました。私の意見において、その本は、ブッシュ家とウォーカー家の真の正体の背後の嘘を正当化するくだらない試み以外の何ものでもありません。

オハイオの歴史的な会の説明は、ブッシュ家の説明のそれらの追憶からは異なります。更に特定的に、「サミュエル・プレスコット・ブッシュは、クリーヴランドの連邦準備銀行の会長として勤め・・・」そして「民主党員」⁵² で、共和党の一家の肖像に矛盾する2つの事実で、そして第二次世界大戦の前と間の彼とGHSI/PSB のナチスとの拘わりを前兆します。国立記録保管所において、SPB の活動を調査しようと試みている研究者達は、彼の記録は場所を造るために「焼却された」と伝えられます。SPB の国立記録保管所におけるその消失にも拘らず、その一族全体が、父方も母方も、ナチスに同情的なだけでなく、国家反逆者達だったと言う十分な証拠があります。彼等は明らかにアメリカ人では無く - 彼等はナチスの侵入者達でした。

GHSII/GHWB (再び)

第二次世界大戦が終結する遥か前に、Abwehr (防衛諜報工作)の司令官、ウィルヘルム・カナリス海軍大将は、再編成するための計画を立てました。ドイツがその戦争に「敗戦」する判断が成され、そしてその組織は「地下」に潜る事を余儀なくされました。彼等の長期的な計画は、戦後に発見された文献、マドリッド回覧書の中で描写され、秘密裡に米国に潜入し、最終的にその国を乗っ取り、故に一度も銃を撃たずに「千年帝国」を確立する事でした。

その Abwehr はその後、「Deutsche Verteidigungs Dienst」(ドイツ防衛庁[DVD])に成りました。その機関の信念は:「Für uns, ist der Krieg niemals vorbei」(私達に取って、その戦争は決して終わらない)でした。

「偽造された出生書」、(彼の父によって可能にされた)年齢未満の内の海軍における兵籍、そして彼等のダメージを受けた海軍の飛行機が未だ着陸出来るのに、彼の2人の乗組員を見捨てた(死亡させた)GHSII/GHWB のスコルツェニーの説明は、海軍の「最も若い操縦士」のより暗い側を描写する、背筋の凍るような言及でした。

彼の「英雄性」の伝記の説明は、再び、彼の父、PSB – 別名 GHSI - を私達が忘れない様に、「戦争の英雄」としての彼のイメージを描く事を意図されていました。

スコルツェニーとGHSII/GHWB は、オデッサとペーパークリップ作戦を通して、多くはアルゼンチンを通り不法入国した、約50,000人のドイツ人のスパイ達を助ける事によって、CIA を確立しました。カナリスは、1944年7月22日にヒトラー暗殺計画における彼の役割のために「裸で吊るされた」と報告されました。この逸話は策略で、そしてカナリスは、サミュエル・ランダール・ピットマンという偽名の下で、オクラホマに移り住みました。法律の教授を偽装し、ピットマンは彼が教えたオクラホマ・バプティスト大学において安全な避難地を見つけました。彼の家は、米国諜報工作のコミュニティー内の裏切り者達によって供給されました。ピットマンの住所は:オクラホマ州、シャウニー、西ミッドランド通り426で、その大学のすぐ近くでした。犯罪を証明する DVD の記録と、ヴェトナムのジャングルを枯れさせるために使用された枯葉剤に関する書類と共に破壊する努力において、オクラホマ市のムラー連邦ビルが爆破されたのは偶然ではありませんでした。

GHSII/GHWB は国際的で政治的なクーデターを造りだす背後にいて、CIA によって資金援助された狙撃手、ゲリラ、そして麻薬の密輸人達を組織化し訓練させるための責任者でいた。GHSI/GHWB はまた、ケネディー暗殺に先行した、ピッグス湾への侵略においても関連があるとされました。彼のザパタ石油会社は、政治的な暗殺、武器弾薬の取引、そしてマネーの洗濯を資金援助し、指揮する為の方法として CIA によって利用されました。

幾つかの諜報工作機関は、「DVD」が Deutsche Versicherungs Dienst (ドイツ防衛庁)の略ではないかと疑っています。何であれ、Dachau に本部を持つその DVD は、国際的なナチスの諜報工作(ゲーレン機関)の継続です。⁵³

諜報工作の情報源によると、カナリスは1976年に病気に成りました。当時、ヘンリー・キッシンジャーが、DVD の現役の指導者としてそえられました。キッシンジャーは1978年に、GHSII/GHWB によって永続的に入れ替わられました。

頼る事の出来る諜報工作の情報源は、GHSII/GHWB が、ドイツのパスポートと市民権を持っていると明言します。英国のスパイ衛星は、シェーフ(別名ジョージ H.W. ブッシュ)が、ドイツのミュンヘンの Dachau における DVD の集会に出席している写真を撮りました。

GHSII/GHWB は、彼が狼狽させられる事に、1963年11月22日のテキサスのダラスで、ジョン F. ケネディー大統領が暗殺された後にテキサス教科書保管所において撮影された写真に写っています。その運命的な日に「彼が何処にいたのかを思い出せない」と言う彼の認識にも拘らず、彼は(CIA のエージェントとして)、その翌日に、FBI 長官、J. エドガー・フーヴァーによって報告を受けました。⁵⁴

1993年に、あまり知られていなかった文書が表面化し、それはこの報告を描写しただけでなく、1960年まで遡るGHSII/GHWB の CIA との拘わりを描写しました(第二次世界大戦の終わりに彼が「ジョージ H.W. ブッシュ」と共に、CIA を共同設立したと言う、スコルツェニーの1999年の明言を思い出して下さい)。驚きにも、CIA で働いていたもう一人の「ジョージ・ブッシュ」が「混乱」の原因と成り、GHSII/GHWB はその暗殺への参加者としての疑いから逃れました。

再び、1974年のニクソンのウォーターゲートのテープの中で JFK 暗殺の題材が再浮上した時、CIA と GHSI/GHWB を関係させたであろう「写真」に言及する話し合いが録音されました。

ニクソンの選挙キャンペーンのために働いた GHSII/GHWB はまた、その暗殺の後に FBI のヒューストンの本部に電話し、「恐らくヒューストン大学のジェームズ・パロットと言う学生が、大統領がヒューストンを訪れた時に殺害すると語った」と明言する事で、ジェームズ・パロットを罠にはめる試みを行いました。

GHSII/GHWB はその後、ハリス群の共和党の本部の事務員達、「ファーレー夫人」と「アーリーン・スミス」が、「パロットの正体に関する更なる情報源」の2つの情報源であると FBI に与えました。

此処において私達は、JFK の暗殺の数週間前に、この「事実」を知っていた、その暗殺に関する3つの別々の情報源を有しますが – FBI は、その事件の数時間後まで知らされていなかったのでしょうか?

この見解において、JFK が暗殺された日に、彼が何処にいたのかを思い出せないと言う GHSII/GHWB の証言は信じる事が不可能です(JFK が暗殺された日に、自分が何処にいたのか思い出せない[アメリカ]人などいないでしょう?)

GHSII/GHWB は明らかに、その幾らか後の1992年の彼のビル・クリントンに対する選挙キャンペーンにおいてパロットが、GHSII/GHWB のために働いた時に、パロットを許したようです。その FBI の文書はそれ自体のために語り、その教科書保管所の前で撮られた写真も同様です。

1942年における GHSI/PSB に対する「敵国との取引禁止法」の違反の告訴が取り下げられたのと同様に、これはシェーフ一族のメンバーを含む、連邦的な「捜査」の一例で、その機関が「その宿題(捜査)を行っている」と言う幻想を与えるためにデザインされました。

それらの事実は - 何千人もの目撃者達と共に、真昼間において、現役の大統領を含み – その「マスター・プラン」に従わない者を誰であれ「排除」出来る組織によって、FBI と CIA の両方が操作されていると言う主張を補佐します。ケネディー大統領は、連邦準備銀行を解体し、CIA を粉砕し、そして組織的な犯罪を取り締まる、彼の意図を公表し;ケネディー大統領は、そのマスター・プランに対する大きな危険でした。

政治における GHSII/GHWB のうなぎ上りの台頭の前に、彼が極東からの麻薬の密輸作戦を監督した事が推測されます。兵士達、軍事的な助言者達、そして諜報工作の士官達からの様々な証言が、暗殺、外国の政府の転覆、そして秘密裡のブラックな作戦を資金援助するための、着手金を派生させるための秘密裡の作戦の近辺に彼を位置付けます。

GHSII/GHWB は、未だに彼の「ブッシュ」の偽名を使い、テキサスにおいて立候補し、1967-1971年の間、下院議会の議席を得ました。

リチャード・ニクソン大統領の辞任の後、2カ月も経たない内に、当時共和党の国家委員会(RNC)の議長だった GHSII/GHWB は、直ぐに公共の注目から案内され、中国の北京における外交官の主任に任命され、その地位を彼は1975年の真珠湾記念日まで保ちました。彼はその後、「GHSII/GHWB が一度も働いた事が無い」と主張する CIA の長官へと昇進させられました。

GHSII/GHWB は、1976年1月30日から1977年1月20日まで、合計355日間、CIA の長官でした。ヴェトナムにおける戦争の間のアジアにおいての彼の働きと類似して、彼の中国における存在は、恐らく麻薬密輸の拘わりで、麻薬の支払い、暗殺、そしてマネーの洗濯以外は、外交関係と殆ど関係なかったでしょう。彼の米国への回帰は、恐らく、違法的なアジアからの利益の行き先であった、ヒューストン第一銀行の社長の地位と共に報酬されました。

1981年に、GHSII/GHWB は、ロナルド・レーガン大統領の下で副大統領に成り、1980年代の後期におけるソヴィエト連邦の金融的な崩壊の間に、レーガン大統領の指示の下で、レオ・ワンタ大使のアメリトラスト・グループ社によって集められた膨大な量の資金を知っていました。GHSII/GHWB はその後、1989年において第41代大統領に成りました。彼が大統領の間、シェーフ大統領・・・え~っと・・・(別名)ジョージ H.W. ブッシュ大統領は、ワンタと彼の中国人のパートナー、ホウ・クゥォング・コックから数兆ドル要求するために、香港へ旅しました。⁵⁶

その(大統領令12333の下で収集された)米国財務省に戻されるとされるマネーを手渡す事を彼等が拒否したために、ホウはその10日後に毒殺されました。今日、2007年において、4.5兆ドルとされる決済の資金は、バンク・オブ・アメリカ、ワチョーヴィア銀行、シティ銀行グループ、J.P. モーガン・チェイス、ゴールドマン・サックス、ノヴァ・スコティア銀行、ケミカル銀行、第一ユニオン銀行、ドイツ、スペイン、オランダ、イングランド、グレナダ、北ヴェトナム、インドの銀行と共に、マネーの洗濯、ネズミ講、デリヴェティヴ、信託、年金基金、そしてオフ・ショアの口座における金融的なピンポンのボールとして現在使用され、ヘンリー M. ポールソン財務長官、マイケル・チャートフ国家安全保障長官、何人もの閣僚達、ビル・クリントン元大統領、ヒラリー・クリントン上院議員、リチャード・チェイニー副大統領、そしてジョージ W. ブッシュ大統領が代わり代わりにパドル/オール(主導権)を持ちます。

結論

ヒトラーの護衛で、マスター・スパイ/暗殺者だったオットー・スコルツェニーの「死ぬ間際の告白」の上に基づいて、私達は、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュと、彼の父、プレスコット・シェルドン・ブッシュが、彼等が偽っていた人達では無かったと言う手掛かりが与えられました。その手掛かりを辿る事によって、私達はスコルツェニーの主張を補佐するその他の手掛かりを見つけ:つまり、PSB が GHSI で、GHWB が GHSII でした。

この点と点を線に繋げる調査の試みの結果は、世界支配のための「マスター・プラン」が、疑う余地無く暴露されたと言う事です。その計画者達はもう、彼等のプロパガンダ化された歴史の教科書と一族の伝記の架空的な現実を隠す事は出来ないので、更にもっと多くの事が研究され、記述される事が出来ます。

「法律を守ると誓った」者達は、何時そうするのでしょう?私達のアメリカの愛国者達と呼ばれる人達は何時、最終的にこれ等の現実と向き合い、この狂気を終わらせるために、背骨を見つけるのでしょう?

私達が気付くか気付かないかは別にして、世界はアメリカを見ています。それらの問題について私達が対処すると決める事は、私達の運命だけでなく、世界の運命も決定します。私達は、羊の様に、私達の惨殺へと導かれるのでしょうか?それとも、私達はやっと目覚め、怒り、そして「十分だと言ったら十分だ!」と言うのでしょうか?

第二部の参考文献:
元記事参照: http://www.proliberty.com/observer/20070405.htm

FBI: ヒトラーは、1945年に、アルゼンチンへと逃れた

FBI Doc Confirms Hitler Fled to Argentina in 1945
FBI の書類は、ヒトラーが、1945年にアルゼンチンへと逃れた事を確認する

http://geopolitics.co/2015/04/05/fbi-doc-confirms-hitler-fled-to-argentina-in-1945/

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FBI.gov (政府)において、目の前に隠され、ある書類が第二次世界大戦末期におけるヒトラーの行方を確認し、此処において、ダウンロードされる事が出来ます。

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彼は、92歳の老年まで、米国全体を行き来していた様です・・・

上の書類より:

「1945年1月12日 - 私はよく知られたドイツの工作員 X からの訪問を受けました。彼はドイツの敗戦の可能性を匂わせ、一時的に、ヒトラーと、ドイツの科学者達と士官達が「世界の表舞台から身を隠す」ための、南米における避難地として、最も適切な場所を考えるために、二日の猶予を私に与えました。

1945年1月13日 - 私は最大の安全を供給するために、どの場所を決めようかと、私の頭脳を悩ませました。私は、私自身の故郷であるコロンビアを推進する事を決めました。」
- 上述の FBI 書類の149ページより

「その期間の間私が常にドイツと『ヒトラーのグループ』と連絡を取っていた、1か月半を超えた日数を必要とした、必要な準備の全てを行った後・・・1945年7月19日の早朝に、バヒアホンダ(コロンビア)において、上陸が成されました。」

「6日間の間、ヒトラーと彼に同行した部下達は、夜間の間だけに馬に乗り、バヒアホンダから「ラ・ロマ」の飛行場まで移動しました。密会の同意された時刻に、3人の仲介役の男達と私は、ランデヴーの地点で待っていました。其処からナリノまでの移動を始めるために、私達は3機の4人乗りのスティンソン小型飛行機を用意する事に成功しました。その後、私は突然、一人の高い階級のドイツ人士官によって、ヒトラーが、彼の考えを変え、私の私有地に身を隠す事を止めたと知らされました。」
- 上述の FBI 資料の150ページ

新たに公開された FBI の文書は、ヒトラーが第二次世界大戦のずっと後まで、アンデス山脈において元気に生きていた事を、(米国)政府が知っていた事を証明します・・・

2 nazisus

ヒトラー、ボーマン、2人のドイツ人の物理学者達、そして2人のパイロット達が、当時、私が無視した目的地へと、飛行機で移動しました。彼等は、彼等と共に、間惑星スカイ・ロケットである、V-3 スカイ・ロケット爆弾の秘密裡の設計図と、ドイツの原子力研究の完全な記録を運びました。私達と、そのグループの残りは、彼等がドイツからもたらした実験の道具とその他の荷物と共に、ジャグアまでトラックと自動車で運び、そして其処から別々の段階において、内地へと、歩いてその移動の残りを行いました。

1カ月後に、ボゴタのサヴァンナのプランテーションにおいて、私が再びヒトラーを見た時、私は彼等の飛行について知らされました。7月26日の早朝、彼等はボゴタの68番通りの下の見捨てられた場所のラ・フロリダの飛行場に着陸しました。その飛行は乱暴でした。彼等は夜間に、あまりパワーが無く、そして当然、ラジオのビームも無い飛行機で、(アンデス)山脈を超える事を余儀なくされました。それらの状況の下で、そのパイロット達の技術が披露されました。彼等が着陸すると、そのパイロット達は、その飛行機を焼き、そしてその残骸はサンタ・マリア近郊の湿地帯に沈められました。

ラ・フロリダにおいて、私に明かされた計画にそれまで参加していなかった3人の人達が、ヒトラーに会いました。彼等の内の一人は、ヒトラーが滞在するプランテーションを所有していました。その後者(ヒトラー)は、私だけを信頼する事を嫌っていて、最後の最後に彼の考えを変えましたが、しかしながら、私は、彼の親密な部下の一部に留まりました。

何カ月にも渡る、世界中の共産主義者達に対する戦いは、そのサヴァンナにおけるプランテーションから指導されました。1946年の初めにおいて、ボゴタにおけるロシアのリゲーション(調査)の数が増やされた時にだけ、総統の隠れ場所がソヴィエトに発見されたのではないかと、私達は恐れました。数週間後、彼等がその計画を呼んだ様に、彼等の「ニーベラ」計画を楽しそうに行っていた、ヒトラーと彼のグループを追う試みにおいて GPU (ロシアの秘密警察)の捜査官達が失敗し、残念そうにモスクワに戻った時に、私達の恐れは無く成りました(FBI の翻訳者のメモ:「ニーベラ」は、霧、かすみ、または物体を覆うフィルムを意味し、そしてそれは恐らくヒトラーと彼の部下達が、彼等の正体を隠す事に成功した事実を表現しているのでしょう)。私達は今、何故ボゴタにおけるロシアのリゲーションがその様な大きな規模の捜査官達を有していたのかを知っています。ヒトラーは、彼等の動きのを一つ残らず知っていました。その「グループ」は、ロシアのリゲーション自体の中に隠れたエージェント(二重スパイ)を持っていました。

ドイツのエージェント達と科学者達は、方や大西洋を渡った秘密裡の潜水艦のルートを通て、またはその他は、ユダヤ人の移民に化けて、コロンビアに到着し続けました。ある心地良い機会に、米国の共和党の指導者が、そのサヴァンナのプランテーションを訪れました。その他にも、共和党員や民主党員達が、その後に訪れました。その静かな豪邸において、全ての聖戦の最も崇高なものが行われていました:血生臭いモスクワの共産主義の赤い蛇に対する戦いでした。

そして此処で、この話の最も衝撃的な啓示が成されます: -
上述のFBI の書類、151-152ページ

国家売国/解体の策略

国家売国/解体の二大戦術=「革命型戦術」と「憑依型戦術」

賢者は国際的な秘密結社が使う戦術を二つに分類している。

革命型戦術」と「憑依型戦術」である。

フリーメイソン結社で言うと、フランス系が革命型戦術を使い、米英系が憑依型戦術を使う。(だが、必ずしも「左翼」「右翼」に対応している訳ではない。これは後述する)

革命型戦術とは、フランス革命に代表される正面切っての革命工作のことである。革命型戦術では、具体的には、①革命思想の普及②革命組織の構築③打倒対象とする体制や国の悪宣伝という手段を使う。

フランス革命の前には、ルソーの社会契約論や一般意思説、アダム・ヴァイスハウプトのイルミナティ思想が広まっていた。これらの影響が広がる事で、英国系と同じく元来神秘主義の傾向が強かったフランスのフリーメイソン組織が政治的傾向を強めていった。そこから多数の革命実行者を輩出していった(だが、フランス革命の背後には英国のシェルバーン伯爵などがいたと言われており、結局英仏メーソンは両建で同根だということが分かる)。

これらの思想の中で特に一般意思説はその後の独裁政治において悪用された思想である。一般意思説については以下のように書いた。

〇ルソー流の「一般意思」という思想は「民衆の意志の体現」を標榜する独裁支配を招きやすい、というのが歴史の教訓である。国家が巨大になる程、直接民主制は難しくなり、実際には「一般意思の体現者」を偽装する独裁集団の支配に帰する。スターリンも毛沢東もヒトラーも「一般意思」の体現者を演じた。

〇「生産手段の共有」を標榜する社会主義では、労働者大衆が生産手段を共有するという建前だが、現実には社会主義政府が所有する事になる。「労働者人民の一般意思を体現する人民政府」を標榜する独裁統治である。一般意思説は少数の野心家が民衆を扇動して権力を奪取する為の格好の思想的道具となった。

〇グランド・オリエント社(フランス)・イルミナティの系譜の政治勢力(所謂「左翼」)は、政治的正当性を調達するのに「民衆の意志を体現する」とするルソー流の一般意思説を使い、現実には、己の理性能力を過信しつつ「知的能力を保証された少数集団が統治をする」というエリート支配を行なう。社会主義国家がまさにそれであった。

エドマンド・バークの「フランス革命についての省察」における記述によると、フランス革命は主に「不遇の大貴族」「金融業者」「不満を持つ知識人」の三者の結合によって起こされたという事である。その中でも思想面を担当したと思われる不満を持つ知識人グループにより、啓蒙思想やそれが先鋭化した理性崇拝教、革命思想が広められたのであろう。

ここで言う理性崇拝教とは、人間の持つ理性能力を過信し、社会的制度を一から構築可能だとし、さらに「理性」を実体視することでキリスト教の「神」のように崇拝する思想(カルト)のことである。要するに「内在化されたキリスト教」ということである。内在化されたといっても、結局は実体としての理性を対象化して崇拝しているので結局はキリスト教の「神」を「理性」と言い換えただけの代物だと言える。

次に、革命組織の構築についてだが、これは上意下達(ヒエラルキー/縦型社会)の厳格な軍隊的組織である。アダム・ヴァイスハウプトが作ったイルミナティは、まさにそのような組織構成をしている。上級者の命令は絶対であり、下級者は厳格な規律の下命令に従わなければならない。ヴァイスハウプト自身が書いたイルミナティの案内書によると、イルミナティ結社員は直接の上司以外のメンバーのことは知らず、階級が上がるにつれ徐々に開示される情報が増えていくが、組織の全貌を知る者はトップのみとなっているようだ。規律と機密保持を厳格にする組織構成であることが分かる。このイルミナティ結社の組織構成の原型はイエズス会である。そもそもヴァイスハウプトは元々はイエズス会士であり、イルミナティの組織形態は厳格な軍隊的組織であるイエズス会に学んだものの様である。ある学者によると、フリーメイソンなどの西洋の秘密結社のあり方自体が中世のカトリック修道院の影響を受けているとのことである。メーソン組織の原型そのものがバチカンなのかもしれない。「カトリック」は「普遍」を意味する様に、カトリック教会も根本的にワンワールドを志向している。メーソンやイルミナティもこの方向性を踏襲し、多少プロットを変えただけのものだと言える。戦国期に我が国に侵襲してきた西洋勢力の先兵もイエズス会であった。

次は打倒対象とした体制や国の悪宣伝だが、これはフランス革命時にばら撒かれたさまざまなビラが残されている。かなり、下品下劣で卑俗な内容のものが多い。こういうものをばらまくことで王室の権威を貶め、民衆に体制への憎しみを植えつけたわけである。現代においては、テレビや映画などの映像メディア、インターネットを使った組織的な対象貶め工作(ネット工作員の「主要業務」と思われる)などが該当するだろう。

ネオコン勢力がある国に秘密工作を仕掛けたり、軍事侵攻して体制転覆を図る場合、その国の体制に対してメディアを動員した悪宣伝を大々的に行うのが常套手段である。

イラクのサダム・フセインも、リビアのカダフィ大佐も、そのやり方で「悪魔化」され、軍事侵攻を正当化していった。また目下進行中の欧米によるシリア侵略において、権力犯罪者集団はメディアを使ってシリアのアサド政権への悪宣伝工作を続けている(だが、ロシアによる暴露等を通じ、トルコとISの関係が広く知れ渡ったりして、真に受ける人は世界的にどんどん減少している)。

「革命型戦術」では以上のような主な手段を用いて、「革命」(という名の権力奪取)へと誘導していくのである。

次に革命型戦術と対になる「憑依型戦術」について述べる。

憑依型戦術とは、正面からある国なり、体制なりを打倒しようとする革命型戦術とは違い、対象となる国の内部に密かに浸透して、最終的に乗っ取る、という手口である。

これは単に対象国の政府や政治組織を乗っ取るということだけにとどまらず、対象国の言語、宗教や思想、習慣や風習を換骨奪胎して別のものに変貌させるという文化破壊工作をも意味する。東亜で言うと、中国は古来より易姓革命の土壌がある国柄なので、グランド・オリエント(フランス)系の革命型戦術である共産革命にやられてしまったが、我が国では「孟子を乗せた船は日本に着く前に沈む」と古来言われたほど「革命」に対して強く警戒してきた国柄である。蘇我、藤原、平氏、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川と政権は転変したが、どの政権も一部の例外を除き敢えて朝廷を打倒しようとはせず、朝廷から摂政・関白、太政大臣、征夷大将軍等の正式な官職を与えられて政権の正統性を確保する、という道を選んだ(足利義満は自ら天皇になろうとし、織田信長は朝廷を廃止し、自らが日本の王になろうとしたと言われている。また明治帝=大室寅之祐という「すり替え説」にしろ、表立っての「革命」が難しいという日本の歴史的土壌を反映した説と言える。)。

このような長い歴史を持つ日本は革命型戦術には非常に強靭な抵抗力を持っている。であるから大正時代から流入したマルクス主義も所詮は知識人のお遊びに止まった。

だが、日本は元々文化的に寛容なので、憑依型戦術にはかなり無防備な面があった(当初キリシタンすら受け入れようとした。これは先方が奴隷貿易やあからさまな神社仏閣破壊を仕掛けてきたので断固排除した)。

我が国は幕末維新期以降、主にこの憑依型戦術で侵攻を受けてきたのである。このあたりについて以下のように書いた。

〇百科全書学派などフランスの啓蒙主義者は儒学など中華思想に影響を受けたと言われている。確かに「怪力乱神を語らず」という儒学は、当時のキリスト教文化とは対照的な合理性を持っていた。加えて気になるのが、易姓革命思想の影響でグランド・オリエント社的革命思想が形成されたのか?である。中国大陸共産化は逆輸入?

〇只の思いつきの仮説→儒学の合理思想がキリスト教文化圏において変貌した姿が啓蒙主義、さらに一神教化したのが理性崇拝教であり、政治的に先鋭化したのが革命思想、その延長にある共産主義。「共産主義」=怪物化した儒学の合理思想が「逆輸入」という形で襲い掛かってきたのが大陸の共産革命だった。

〇そう言えば我が国では古来より「孟子を積んでくる船は日本に着く前に沈む」と言われていた。実際には孟子も輸入されたが、儒学を受け入れた我が国が易姓革命思想だけは警戒して受け入れなかった事を示している。論語と違って孟子の方ははっきりと易姓革命を肯定しているから危険な書とされた訳である。

〇易姓革命の伝統がある中国はグランド・オリエント社系の共産革命にやられたが、我が国では共産主義はインテリのお遊びに過ぎなかった。これは「易姓革命」の土壌のあるなしによると思う。日本はグランド・オリエント社系の革命戦術ではなく、英米系の憑依戦術つまり伝統を改変・改竄する事で文化を破壊し、乗っ取る戦術を仕掛けられた。

〇日本は正面から来るフランス・メーソン(グランド・オリエント社)系の「革命型戦術」には強靭な抵抗力を持つが、内側から侵食し、乗っ取りに来る英米国メーソン系の「憑依型戦術」には無防備な所がある。明治以後はこれで散々やられてきた。共産革命は防止したが、今やネオコン・偽愛国者・朝鮮カルト一味の天下ではないか。

〇「憑依型戦術」の実例。明治以後の歴代天皇陛下はガーター騎士団に入られ、宮中周辺はキリスト教徒だらけ、重臣・高官メーソン多し、皇室と伝統仏教のご関係断絶、キリシタン神学を密輸入の平田派の系譜を引く在野神道カルトの跋扈、仏教と耶蘇・神智学の混合、クェーカー教徒が初代宮内庁長官等々。

〇憑依型戦術は右派だけではなく、ソ連崩壊後は左派も「反戦平和」「環境」「人権」等の誰も反対できない人道的看板を掲げるやり方で使っている。今時マルクス革命を唱えても誰も真に受けないからだ。左翼過激派ですら偽装政治団体を作る。伝統とか人道を標榜する憑依型戦術を十二分に警戒すべきである。

日本で最初にキリシタン追放令を出されたのは朝廷である。正親町天皇の綸旨「大うすはらい(デウスはらい)」(永禄8年、西暦1565年)である。これは豊臣秀吉の伴天連追放令が出される20年以上前のことである。だからこそ、この段階で西洋勢力は日本をキリスト教化する為には朝廷に狙いを定める必要があると考えたのではないか。そのためであろうか、幕末維新期以後、朝廷に西洋のキリスト教勢力が侵入してくるのである。それに加えて、明治以後宮中に英国系勢力が浸透し、歴代天皇陛下はガーター騎士団に入団されてしまっている。これは日英同盟締結を機としたものだが、日英同盟締結の立役者がフリーメイソンに加入した外交官の林薫である。

※ウィキペディアの林薫の項に以下のような記述がある。
「明治34年(1901年)、ドイツ代理大使から日独英三国同盟の提案が行われ、これをきっかけにして日英間の交渉が始まった。林は本国の指示でイギリス外務大臣の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと交渉を重ね、明治35年(1902年)1月30日、ロンドンで第一次日英同盟を調印した。この功績で2月に子爵に昇叙された。また明治36年(1903年)5月、イギリスのエンパイア・ロッジ・ナンバー2108にてフリーメイソンに入会。翌37年(1904年)には同ロッジのマスター(総責任者)に就任。日本人初のロッジ・マスターとされる。」
なんと林薫はロッジのグランドマスターにまでなっていた。

※参考 戦前の国際秘密結社の研究家・愛宕北山氏は次のように記述している。
「フリイ・メイスン結社そのものは日本にはない。あつてもそれは外國人のみが出入するに過ぎない。日本政府とフリイ・メイスン結社との間の紳士協定によつて、日本人は國内に於ては入會し得ず、またその會合に出席し得ないことになつてゐるからである。しかしフリイ・メイスン結社の祖國である英國は、皇室を始め有力者の殆どすべてが結社員であるので、英國に駐在する帝國使臣は、儀禮的又は便宜的にそれに加入することがあり、日英同盟の立役者であつた林子爵の如きは、相當の高級結社員にまで昇給してゐたことは外國のフリイ・メイスン結社に關する書物にはしばしば記されてゐる。我々は、この外交上の習慣乃至傳統が現在どうなつてゐるかは知らないか、フリイ・メイスン結社に於ては、脱會後さへも結社の祕密を守ることを生命をかけて誓約するのであるから、この點に關しては可成りの注意を要するであらう。 」

さらに、バチカンの濱尾文郎枢機卿の兄・濱尾実東宮侍従(熱心なカトリック信徒)や東宮御教育係を務めた英国聖公会信徒の小泉信三、入江相政侍従長などなど宮中関係者にはキリスト教徒が非常に多い。これは「偶然」か?美智子様のご実家である正田家はカトリックの家柄である。正田家をカトリックに導いたのはフランス人のヨゼフ・フロジャックという神父である。フロジャック神父は宮中にも出入りして、なんと「御進講」まで申し上げていたようである。明治以後、伝統仏教と皇室のご関係が断ち切られる一方、キリスト教が侵入し、宮中に神父が出入りして、「御進講」申し上げるまでになっていたのである。また、皇族方のご進学先に何故か国際基督教大学が加わる。この大学はロックフェラー四世も留学していたロックフェラー系の大学だと聞いている。よりにもよって、キリスト教系の、しかもロックフェラーと関係が深い大学に何故皇族方が?と疑問に思う。

第二次大戦後、日本に進駐してきた連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは宮中のキリスト教化を策した。皇太子殿下の家庭教師にはクェーカー教徒のアメリカ人、エリザベス・ヴァイニング夫人が配置される。初代宮内庁長官にはクェーカー教徒の田島道治が就任した。田島は、中国事変を企画したと言われる太平洋問題調査会(IPR)の日本支部の理事長も務めたフリーメイソンでクェーカー教徒の新渡戸稲造の弟子である。また侍従長には田島と同門の三谷隆信が就任。戦後の宮内庁関係者には意図的にクェーカー教徒などクリスチャンが配置されているように思う。田島道治は宮内庁次長に同じくクリスチャンの宇佐美毅を据える。この宇佐美が二代目宮内庁長官になった。戦後の「宮中改革」を実行した宮内庁はクリスチャン人脈が運営したと言っても過言ではない。

ウィキペディアの「田島道治」の項には以下のような記述があった。
「新渡戸内村門下生の三谷隆信と、田島(宮内庁長官)三谷(侍従長、1965年(昭和40年)まで)の「宮中クリスチャンコンビ」として、戦後の宮中改革に尽力した。このコンビは、田島が宮内庁長官の後任にクリスチャンの宇佐美毅を指名し、「田島-三谷」から「宇佐美-三谷」にリレーされた。そして宮中の民主主義教育の促進や美智子皇太子妃の実現などの功績を残すことになった。」

キリスト教徒によって中枢を固められた宮内庁によって、戦後の「宮中改革」から、キリスト教徒の家柄からの皇太子妃選出に至るまで、「皇室キリスト教化」工作が行われた事が伺える。偶然ではありえない程の宮中周辺のキリスト教徒の人口密度である。日本全体でのキリスト教徒人口は1%に満たない。それを考えると宮中周辺のキリスト教徒の多さが尋常ではない事が分かるであろう。

このように、明治以後の国際秘密結社の対皇室・宮中征略の骨子は「皇室のキリスト教化」にあると見る。

そして、国際秘密結社の対日征略の究極目標こそが「皇室キリスト教化」だと見ている。

宮中をキリスト教化すれば、日本全体をキリスト教化する事も容易い、という狙いだろうか。

これが日本に仕掛けられた憑依型戦術の中枢であると分析する。

つまり、彼らが狙うのは、日本の完全なる変質とそれによる占領である。

2016年のエコノミスト誌の表紙には五重塔の上にスペインの征服者=コンキスタドールが描かれていたが、「日本征服を完了する」という国際秘密結社の意思表示ではないかと言われる。本当に由々しきことである。「破国際秘密結社」に待ったなしである!

また憑依型戦術は思想方面にも仕掛けられる。

それは「神」という概念を本来のアニミズム的なものから一神教の造物主=ゴッド的なものに改竄する(この影響で日本人は「神」と言えばキリスト教的なものを連想する様になった傾向あり)、「日本人の祖先は実は猶太人だった」という日猶同祖論の普及、キリシタン神学を密輸して神道をキリスト教化させた平田神道の神学の系譜を引く在野神道カルトの跋扈、仏教と、キリスト教や神智学との混合(仏耶一元論を唱えた神智学徒のゴルドン夫人。真言密教と景教は同じものだとして高野山に景教の碑を建てた)、日猶同祖論とともに景教渡来説、秦氏=景教徒説を広めた佐伯好郎(のちに日猶同祖論を唱えたのは北海道に猶太資本を呼び込む為だったと服部之総に告白)など数限りない憑依型思想工作がある。

つまり、日本の伝統思想を換骨奪胎しつつ西洋的なものに改変して、日本人を精神的に変質させて屈服させる思想工作である。

「愛国保守」政治勢力への憑依や利用も顕著である。

我が国の保守勢力は親米と反米に分けられる。

まず親米の方であるがこれは正確に言うと「従米」である。

グローバリストやネオコン、新自由主義者が保守層の支持を得て動員するために「愛国保守」を偽装するという手口を使って「保守」と名乗ったものである(米国で言うとトロツキー主義から転向したネオコンが「保守」を偽装してキリスト教原理主義者を手足として動員するのに似ている)。

今の政権与党として力を握っている安倍以下の清和会一味がそれである。これは以前述べた「統一協会系VS大本教系」という両建構造で言うともちろん前者である。

この勢力の本質については以下のように書いた。

〇自民党議員の失言から見る「日本が米国の51番目の州になれば、日本人の大統領が誕生するかもしれず、世界の中心で行動できる日本になる」との発想。愛国とNWO思想の奇妙なセット売りの行き着く所を分かりやすく表現した「失言」である。「日本の為に」という名目で日本消滅に誘導するのである。

〇この手の発想の極端に奇怪な形が酒井勝軍などが唱えた「世界天皇論」「天孫民族日本人と神選民族猶太人による神州天子国」などというオカルト思想である。NWO思想と合体したナショナリズムは「愛国」という名目で無国境化を推進し、国家を破壊する。愛国主義者を誘導してNWO推進の道具と化す。

〇NWO的ワンワールド的な要素を混入した「愛国思想」が危険なのは最終的に国家解体に誘導するからである。自分を熱心な愛国者だと思っている者達が熱心に無国境化を推進する。「日本が51番目の州になる事が(日本が消滅する事が)日本の為だ」なる倒錯した発想は非常に分かり易い形でそれを示した。

〇「失言」があからさまに示した「日本を米国の51番目の州にすることが日本のため」という清和会一味・従米保守の「論理」。似非保守の連中に感じる違和感の正体はまさにこれである。「日本の為にと言いつつ日本を破壊する」これこそが安倍一味以下のネオコン、朝鮮系「愛国保守」のエッセンスである。

正面から日本を破壊しようとする「反日左翼」より、「愛国」「日本の為に」という名目で日本破壊にまい進する「反日右翼」の方が厄介である。警戒色の「反日左翼」があからさまな反日行動を取る。「反日右翼」はそれを糾弾する姿勢で支持を集めつつ国家破壊に推進する、という毎度の両建的構図である。

〇清和会一味以下の従米保守のエッセンスを身も蓋も無い形で示した丸山発言を「黒人差別」発言としてのみ(もちろんこれも人道的に問題なのは確かである)追及している野党は自民党をある意味助けている。これほど自民党清和会朝鮮カルト売国一味の本質を表した迷言も無いのであるが。

〇従米派は「俺たちは日本をアメリカの51番目の州にしたいのだ。それこそが日本が世界の中心で活躍できる為に必要な事なのだ」と正直に言えばよい。妙に「保守派」とか「愛国者」を偽装するからややこしくなる。グローバリストである事をさらけ出して丸山議員のようにストレートに言えばよいのである。

〇丸山議員は妙に「愛国保守」ぶらずにストレートに本音を言っているだけ正直者である。安倍一味以下も、このくらい堂々と言えばよいのである。「愛国保守」を偽装せず、ストレートにやるべきだ。「反日左翼」が堂々と日本への敵意をむき出しにするように、「反日右翼」も堂々と本音をさらしたらよい。

〇グランド・オリエント社系の革命型戦術に対する英米メイソン系の憑依型戦術。本音では「日本をアメリカの51番目の州にしたい」のに「伝統を守る」だの「日本の心」だの、色々偽装、粉飾をやる。日本人は革命型戦術への抵抗力は強靭だが、この手の憑依型戦術に付け込まれてきた。だからこそ堂々ときやがれと言いたいのだ。

「従米保守勢力」について言いたいことは以上で大体尽きている。

要するに彼らは「反日左翼」と対になる「反日右翼」に過ぎないという事である。

「親米=従米」派と対になるのが反米派である。

反米保守は「真正保守」とも言われ、「本物の保守」とされている。

だがこの反米派にも問題がある。

「米国のグローバリズムに反対する反米派だったらいいではないか?」と思われれるかもしれないが、以前言及したように反米派にも憑依型戦術の魔の手が忍び寄っている。つまり、反米と見せて実は親欧州であり、米国系のグローバリズムと対になる、もう一つのNWO征略である欧州系の世界連邦運動を推進している場合が多いのである。「東アジア共同体」構想を掲げる鳩山由紀夫氏が代表例であろう。鳩山由紀夫氏の祖父である鳩山一郎も反米的ではあったが、同時に、フリーメイソンである欧州貴族のクーデン・ホーフ・カレルギー伯爵と繋がっており、カレルギーの「汎ヨーロッパ構想」(のちのEUに繋がる)の影響を受けて、その東亜版である「汎アジア」構想を持っていた。鳩山一郎はカレルギーの影響下にフリーメイソンに加入し、そのメーソン「友愛」思想は汎アジア構想とともに孫の由紀夫氏に引き継がれている(「由紀夫氏が誰かに似ている」とも言われるが取りあえず今はおいておく)。

戦後の親米右翼の巨頭である児玉誉志夫と対になる反米右翼の巨頭だった田中清玄はEU運動を推進したハプスブルク家のオットー大公と昵懇であり、鄧小平とも近く、鳩山一郎と同じように東亜連邦構想を持っていた。田中はオーストリア出身の経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエクとも交流があり、ハイエクがノーベル経済学賞を受賞した時のパーティにただ一人の日本人として招待されている。またハイエクが作った結社である「モンペルラン協会」の会員である。そして、ロンドンのロイズ保険の会員でもある。このように反米右翼の巨頭・田中清玄は「反米」ではあるものの、何かと欧州の影がちらつくのである。

反米派と言えば、陰謀論界についても憑依型戦術が行なわれている。というより、陰謀論界はもっともコアな思想工作が行われている領域だと言える。

陰謀論界は大本教系人脈の影響力が非常に強いと思われる。

有名な陰謀論者の中で出口王仁三郎の影響を受けている者達が多いからだ(この代表例が故・船井幸雄氏だろう。船井氏は大本教系陰謀論界の重鎮だった)。大本教関連団体である世界紅卍会の会長を務め、世界連邦推進者であった堀川辰吉郎を持ち上げる論者もいる。堀川を「裏天皇」と持ち上げる一派もいる。陰謀論界の重鎮である中丸薫氏は堀川の娘を名乗っている。

プロ筋の陰謀論界では、何故か陰謀論が日猶同祖論、終末思想や救世主思想、オカルトなどとセットになっていたりする。 何故、「陰謀論」単体ではないのか?このため、NWO勢力を批判するという態で、いつの間にかNWOに誘導している、という場合が非常に多い。こういうのを「紐付き陰謀論」と呼んでいる。「国際秘密結社の思想工作の一環」という意味での「陰謀論」という意味である。

確かに彼らは正しい事、役に立つ情報も言う。しかし、正しい事の中に嘘やNWO思想を潜ませるのである。そして、彼らが一部正しい事を言うがために彼らを信じた人たちを、明後日の方向へ誘導していくのである。具体的に言うと、日猶同祖論や、国際秘密力側の思想である終末思想や救世主思想、カバラなどの西洋のオカルト思想を陰謀論とセットにすることで、陰謀追及者を逆にNWOに誘導するのである。陰謀論に様々な思想的仕掛けを施すことで、陰謀追及者を逆にNWO推進の為の援兵と為すわけである。陰謀追及者たるもの「陰謀論の目利き」(重要!)ができなければ、当初のNWO批判の意図に反して、NWO推進の片棒を担がされる羽目になる危険性があるのだ。しっかり注意して、騙され誘導される事が無いようにするべきである。

以上、従米派と反米派の双方を見てきたが、どちらもワンワールド勢力の影が見えるのである。

憑依型戦術の根深さを痛感する。

国際秘密結社はこのような様々な思想工作を仕掛けて、対象国の伝統的な思想や習慣を改竄して別のものに変えてしまったり、対象国の国民を精神的に屈服させたりすることで、侵略を遂行するのである。これは一見して危険だと分かる警戒色の革命型戦術と違い、一見は善意や無害に見えるので意識されない間に進行していき、気づいたときには精神的文化的に占領されてしまっている、という恐ろしい戦術である。十二分に警戒をするべきである。

以上のような国際秘密結社の二大戦術=革命型戦術と憑依型戦術について以前以下のようにまとまった文章を書いたので掲載する。

1)国際秘密結社が侵略戦争以外の方法である国家を攻略する場合、二つの方法があると思う。「革命型」と「憑依型」である。まず「革命型」であるが、これは標的とした国の内部に反体制分子を育成して、正面から国家を破壊する場合である。フランス革命や社会・共産主義革命がその典型である。

2)おそらく原型は、バチカン・イエズス会が行った、キリスト教宣教師を送り込み改宗者を増やして軍隊を組織し現地政府を転覆させる、というやり方であろう。これは戦国期に我が国も仕掛けられた。

3)アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会の出身者で、イルミナティの組織構成はイエズス会の軍隊組織(創設者のイグナチウス・デ・ロヨラは元々軍人)を模したようなのでイルミナティやそれが浸透したグランド・オリエント(フランス・メイソン)社の革命戦術路線はイエズス会に原型があるように思う。

4)しかしこの「革命型」は標的になった国家が脆弱であるとか、多様な勢力に分散して相互に争っているとか、為政者の悪政によって民衆の不満が極度に鬱積しているとか、そういう諸条件が無い、もしくは作り出さないと成功しにくいであろう。

5)しかも革命理論の製造及びプロパガンダ、暴力を集約的に行使するための反体制分子の組織化等々、大きな手間がかかる。もともと正面から、ある一つの文化共同体の成員の思想を改変し国体(伝来の国家社会の形態)を破壊することは難しいことなのだ。

6)だからもう一つの「憑依型」戦術が出てくる。これは、現地国家に元からある伝統や文化に憑りついて別の物に変貌させる、という形で行われる。これは、革命のようにあからさまには行われず、徐々に進行されるため気付かれにくく、現地人からの警戒や反発を最小限に回避しつつ、

7)いつの間にか占領された状態が現出している、という恐るべきものである。歴史を観察すると日猶同祖論のように「お前達のルーツは我々だよ」と精神的に屈服させるやり方(○猶同祖論は世界各地にある)や伝統的思想を換骨奪胎して別のものに変えてしまうやり方などがあることがわかる。

8)特に後者についてであるが、文化を構成する主な因子は言語だと思うが、その言語で表されるさまざまな文化的概念を改変することで、現地の文化を別のものに変えてしまうわけである。「神」という表記、「カミ」という音声、が示す概念内容をキリスト教的な造物主概念で置き換えるようなことである。

9)文化はそれを構成する重要な要素である言語の概念内容が変われば変貌してしまう。自生的に生成してきた伝来の文化が外国勢力によって変改されることは、外国勢力による人為的な文化支配が完成することを意味する。

10)そして文化のあり方と密接不可分な思考言動の習慣が変えられ、それによって形成される国家社会の構造が変貌し、いつの間にかもとからあった独自の文化・国体は消滅している。

11)日本が中国やインドの文物・思想を移入しながら、独自性を失わなかったのは、もともと日中印の文化に汎神論の伝統という共通した大枠がありそれによってスムーズな文化移入が行われたからだと考えている。平田派のキリシタン神学密輸はその大枠そのものから逸脱した。がこれはまた別の話である

12)正面から向ってくる「革命型」の場合は、その国家や文化共同体がある程度安定していれば、防ぐことはたやすい。今やマルクス・レーニン主義者、左翼過激派の言い分をまともに受け取るのは少数派の中の少数派である。

13)だから左翼は偽装転向したり、エコロジーや人権運動、「歴史認識問題」の形を取らざるを得ないのである。(とり憑く対象が伝統ではないとはいえ、一般的に受け入れられているエコや人権擁護を利用するという点で「憑依型」と言える。人間の「良心」を利用するわけである。)

14)しかし、ステルス戦術で徐々に内部破壊を遂行する「憑依型」戦術は、伝統を重んじる心や愛国心すら利用するので、きわめて巧妙である。本来は伝統を護持し愛国心を持って国を守ろうと志すはずの保守愛国勢力は親米派と反米派に分かれつつ統一・大本というカルトの影響下に組み込まれている。

15)統一、大本というのは一神教がベースのカルトであり、日本の伝統思想とは絶対に相容れないはずなのに、一神教カルトのお先棒を担ぎつつ日本主義を呼号するという矛盾である。そして戦前から意図的に流布されたおかしな日猶同祖論が罷り通っている。保守層を標的にした一連の思想ギミックである。

16)保守陣営の一部には熱烈な親イスラエル一派がいる。渡部悌治先生の御著書によると日猶同祖論の資金源の一つが大本教だそうである。そのような工作の結果、共産中国に長年武器援助してきたイスラエルを翼賛しつつ反中国の主張をする、という両建マッチポンプが実際に起こっている。

17)このように、自分は愛国者のつもりでいるのに、いつの間にか国家を破壊することに手を貸していた、そんなことが起こるのである。左翼の国家破壊行動を批判するのは大事だが、伝統保守の側にも魔の手が浸食していることを自覚しないと危ない。

18)正面から来る「革命型」戦術は見えやすいので反左翼は多い。しかしステルスに遂行される「憑依型」戦術は見えにくい。だから偽装保守・カルト保守の批判はあまり多くないのが現状である。その結果が安倍極悪犯罪者仁風林ニセ内閣の横暴である。愛国心を利用した誘導の結果である。

19)己の意思を強制し人間や自然を操作する技術体系が魔術だと思うが、愛国心をも利用して国家を破壊する戦術というのはまさに魔術以外の何物でもない。かかる発想は西洋の底知れない闇の中枢からしか出てこない発想である。まさに悪知恵も極まれりである。

上にも書いたように、革命型戦術を使うのは左翼、憑依型戦術を使うのは右翼、とは限らない。今や左翼もこの憑依型戦術を使っている。今時、マルクス・レーニン主義を正面から掲げて革命を鼓吹しても、誰もまともに受け取らないからである。時々、過激派がテロ・ゲリラ事件で検挙される程度である。だからこそ、「反戦平和」「人権」「環境」等々の誰も反対できないような人道的な表看板を掲げるというやり方をしているのである。左翼過激派が表向き市民団体(「プロ市民」などと呼ばれる)として活動していることは広く知られている。うっかりデモ団体に参加すると過激派に「オルグ」されたなんてことがありうるのである。基本的にカルトがダミー団体を作るのと同じである。現在では左翼も大東社系の革命型戦術一本やりではどうにもならない訳である(だが、拳マークの横文字左翼人工芝一味はソロス財団の傘下にあるアヴァースと連携していたり、周辺の著名人の支持者が「フランス革命」を口にするなど、日本のウクライナ化も危惧され油断はならない)。

※逆に右翼が「革命型戦術」を使う場合もある。玄洋社・黒龍会などが辛亥革命に関与した事例がある。また背後に「右派」勢力の影が見え隠れする湯川陽菜氏はシリアの反政府軍に関与していた。湯川氏の背後関係はいまだに解明されず放置されたままである。背後者は湯川氏を使って何を企んでいたのか?右派であれば、伝統や愛国心に憑依する訳であるが、左派の場合はこれらの人道主義的な名目に憑依する訳である。前者が保守層向けの憑依型戦術であり、後者がリベラル層向けの憑依型戦術である。今や右も左も「憑依型戦術」、であり、全方位的に迫ってくる。

十二分に気を付けるべきである。
http://kokuhiken.exblog.jp/25335175/